生きる目的を見つけた人は、生き方がシンプルになっていく

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フランス革命で処刑されたマリー・アントワネットは、庶民が飢えている中で凄まじい浪費と豪華絢爛な生活に明け暮れていた王妃だった。

その過剰なまでのケバケバしさと豪華絢爛な趣味は、確かに人目を惹いた。

過剰のメリットは、何と言っても訴求力があるということだ。訴求力があるというのは、分かりやすい言い方をすると、非常に目立つということだ。

過剰にメイクアップし、過剰に派手な格好をすることによって人を驚かすことができる。人目を惹きつけ、印象を深めることができる。華美を演出することができる。

しかし、こういった過剰の効用は分かりやすいが、欠点もまたたくさんある。どういった欠点か。

過剰になることで、逆に安っぽく見られる。過剰になることですぐに飽きられる。過剰になることで反発者もたくさん生むという欠点だ。

マリー・アントワネットが当時の人々に徹底的に憎まれて、ギロチンに引き立てられたのは、まさにその過剰なまでの派手派手しさが憎しみの対象になったからだ。ギロチンで彼女の首が飛んだ時、それを見た民衆たちは歓喜した。(鈴木傾城)


プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)

作家、アルファブロガー。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。

「シンプルであること」が支持されるようになる?

女性は、化粧やファッションを過剰にすることで目立つ。商品は、機能や性能を過剰にすることで目立つ。歌手や芸能人も、表現を過剰にすることで目立つ。

あらゆる世界で、単純に目立とうと思えば誰よりも「何か」を過剰にすればいい。そうすると、その過剰さゆえに人を驚かすことが可能だ。

異様なまでの過剰さは、一種のエンターテインメントであると言える。それは人々に娯楽を提供する。

しかし、それがエキセントリックであればあるほど、それを維持するのに大きな精神的・心理的負担がかかる。つまり、コストがかかる。維持することの疑問も生じる。また、過剰は飽きられやすく捨てられやすい。

だから、こういった「過剰」は、あまり長続きできずに淘汰されていくことが多い。過剰であることで生き残るためには、飽きられたときに、すぐに違う別の新規な過剰を生み出せるかどうかにかかっている。

しかし、次から次へと過剰を生み出せるほど人は器用ではないので、別の過剰が今までのものに取って代わるのである。

過剰を志向する人は多い。過剰にして目立とうとする人も多い。過剰であることで自己を表現しようとする人が実は世の中の多数を占めている。

それは、他人にとっても分かりやすいし、自分にとっても自信のなさを過剰で覆い尽くせるから好まれやすい。何でもかんでも過剰に、どんどん過剰になっていくのは、多くの人が過剰であることを志向しているからでもある。

しかし欧米でもそうだが、国が洗練されて人々の目が肥えていくと面白いことに逆の方向性が勃興してくる。「シンプルであること」が支持されるようになっていくのだ。

過剰が飽きられ、遠ざけられるようになっていく。ファッションだけでなく、建築でも、彫刻でも、絵画でも、そしてライフスタイルでもすべてがシンプルなものを目指すようになる。

ありとあらゆるモノが溢れて何でも手に入るようになった現代社会で起きているのは、まさにこの現象だ。過剰なまでにモノが溢れれば溢れるほど、人々の心を捉えていくのは「ミニマリズム」であった。

豪華絢爛を極めたマリー・アントワネット。過剰なまでの派手派手しさが憎しみの対象になり、ギロチンで彼女の首が飛んだ時、それを見た民衆たちは歓喜した。

「余計なものを捨てる」という思想が根底にある

シンプルになるというのは、付け加えるのではなく、要らないものを捨て去るという発想である。あれもこれもゴテゴテと付け加えるのではなく、逆にバッサリと削っていく。

絞り込み、捨て去り、余計なものをいっさい省き、無駄を排除する。そうやって「大切なもの」だけを残す。それだけではない。大切なものだけを残して、その大切なものを極限まで磨いていく。

ところで、フランスのマリー・アントワネットの、すべてを過剰に飾って派手さを競うスタイルは、もちろん華美さは控えめにはなったものの、多くの金持ちの女性たちや華美さを好む女性たちに引き継がれて、それが伝統になった。

しかし、そうした華美さを競う風潮を徹底的に破壊したのが20世紀のフランスだった。

女性を縛りつけていたコルセットを排し、華美な装飾も取り払い、色もブラック一色のシンプルな服装を提案して当時の世の中を驚嘆させたのは、ココ・シャネルという女性だった。

凄まじい華美さの象徴であったマリー・アントワネットと、その対極のミニマリズムを追求したココ・シャネルが同じフランスで誕生しているというところに歴史の面白さがある。

世の中のあらゆるものが過剰になっていくと、逆に人々が求めるのは、シンプルなもの、最小限なもの、研ぎ澄まされたものになっていくのである。

面白いことに、過剰なものを一通り経験した人が最後に辿り着くのも、過剰なものが一切ない最小のものなのである。余計なものを捨てて、最後の最後に残ったものを愛でる。

このあたりは、日本人であれば感覚的に納得できるものがあるはずだ。なぜなら、日本文化もまた「余計なものを捨てる」という思想が根底にあるからだ。

かつての日本人は、ワビ・サビの中にある美を好んでいたが、このワビ・サビというのは、侘(わび)、寂(さび)という漢字を見ても分かる通り、研ぎ澄まされた静寂と質素な空間の美しさを指していた。

まさに、余計な装飾を捨て去り、必要最小限だけを残して、その研ぎ澄まされたシンプルさを愛したのである。

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生きる目的を見つけた人は最終的にどうなるか?

磨き抜かれたものは、必ずシンプルなものになっていく。これは、ヒトでもモノでもそうだ。女性のファッションにしてもそうだ。

過剰なものからシンプルなものへと転換した時、女性もはじめて本当の意味の美しさを得ることができる。ただ多くの人はそこまで達観することができないので、やたらめったらと飾り立てて自滅していくことになる。

過剰であればいいというものではない。たとえば、イミテーションのガラス玉100個で飾り立てたアクセサリーよりも、本物のダイヤモンドひとつの方が価値がある。

本物を1つ持っていれば、100個のニセモノで飾り立てることの滑稽さに気付くのだが、本物を持っていない場合は、ニセモノをたくさん集めようと過剰に飲まれていく。

本物はシンプルだ。

ニセモノの家具はすぐに壊れるが、本物の家具は100年でも平気で使える。ニセモノの建築物は20年で老朽化してボロボロになるが、本物の建築物は100年でも崩れない。

人は、人生のどこかでこのような「本物」を知れば、ニセモノには耐えられなくなってしまう。本物の凄みに圧倒されてしまい、他では満足できなくなってしまうのである。

しかし、ニセモノが横行するのは仕方がない。本物は稀少だし、とても高価なことが多いので、誰もが簡単にそれに触れることができないからだ。

ところで、人生もまた同じことが言える。

趣味が10も20もあって、やっていることも10も20もあって、友人が100人も200人もいるというのは華やかで騒々しいが、その生き方は本物なのだろうか。

自分の使命を見つけた人は、どこかの時点で必ずすべてを捨てて1つを追求するようになり、その1つのために他のすべてを捨ててシンプルな生き方になっていく。

生きる目的を見つけた人は、生き方がシンプルになっていく。それは必然だ。(written by 鈴木傾城)

オードリー・ヘップバーン。ココ・シャネルが1926年に発表したリトル・ブラック・ドレスにインスパイアされたフランスのデザイナー、ジバンシィがデザインしたこのシンプルなドレスはオードリー・ヘップバーンを象徴するものになった。マリー・アントワネットと比べてみて欲しい。
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