アポロフォビア(貧困嫌悪)が広がる将来の日本社会はどういう状況になるのか?

今の社会では、人格ではなくカネが人間の判断基準となる。どれだけ稼ぎ、どれだけ消費し、どれだけ社会に利益をもたらすか。それが人間の評価軸になっている。この評価軸の中では、貧困層はきわめて不利な立場に置かれる。いずれは「軽蔑」の目で見られるようになるだろう。社会は荒れるだろう。(鈴木傾城)

鈴木傾城

プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)
作家、アルファブロガー。著書は『ボトム・オブ・ジャパン』など多数。経済分野を取りあげたブログ「フルインベスト」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」を運営、2019、2020、2022年、マネーボイス賞1位。連絡先 : bllackz@gmail.com

日本でも、貧しさは静かに増えていく

日本は長らく「中流社会」と呼ばれてきた国である。だがそれは、もはや現実と一致していない。厚生労働省の最新データでは、日本の相対的貧困率は15%前後で推移しており、先進国の中でも高い水準にある。

単身世帯、高齢者、非正規労働者に限れば、貧困は例外ではなく日常だ。

だが、多くの人はまだ日本は豊かだし、先進国だし、その状態は未来もずっと続くと思い込んでいる。だが、日本はゆっくりと貧困側に向かっていて貧困のカテゴリーに入る人たちも増え続けている。

貧困が見えにくい理由は、日本では「露骨な貧しさ」が街にあふれていないからだ。路上に寝転ぶ人は少なく、スラムが広がっているわけでもない。

だが、見えないから存在しないわけではない。家賃を払うために食費を削り、医療を先送りし、将来の展望を持てない生活が、都市の内部でじわじわと広がっている。貧困は誰も見えないところで錆のように広がるのだ。

私は東南アジアで、もっと直接的な貧困を見てきた。

バンコク、マニラ、プノンペン、ダッカ。路上で眠る人々、物乞いをする子供、売春に追い込まれた女性たち。そこでは貧困は隠されていない。誰の目にも明らかで、社会の底に押しつけられている。

その光景を見たとき、多くの日本人は「日本とは違う」と言う。私はそうは思わない。誰も信じないかもしれないが、今の社会保障が崩壊したら、すぐに日本も似たような光景が現れるだろう。

そして、今後は貧困層に対する風当たりも強く激しくきついものになっていく。

なぜなら、カネを持たない彼らを人々は社会的な負担と思うようになっていくからだ。これまでの「負け組」「努力不足」「自己責任」という言葉は、貧困層を切り捨てるためのプロローグでもあるのだ。

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貧困そのものよりも向けられる視線

貧困に陥った人は、不当なまでに低く見られるようになる。なぜなら、現代は資本主義であり、資本主義が弱肉強食化していくと「カネを持っていない人間は不要」という切り捨ての論理が広がっていくからだ。

今の社会では、人格ではなくカネが人間の判断基準となる。

どれだけ稼ぎ、どれだけ消費し、どれだけ社会に利益をもたらすか。それが人間の評価軸になっている。この評価軸の中では、貧困層はきわめて不利な立場に置かれる。いずれは「軽蔑」の目で見られるようになるだろう。

カネを持たない人は消費しない。消費しない人は経済に貢献しない。経済に貢献しない人は、社会にとって不要な存在だと認識される。この連鎖は非常に単純で、しかも冷酷だ。だが、そうした考え方が広がっていく。

実際、日本では生活保護受給者に対する世論は厳しい。厚生労働省の統計では、生活保護を受けている人は人口の数%に過ぎない。社会には「あいつらは怠けている」「不正受給している」というイメージが根強く存在する。

大多数の生活保護受給者は高齢、病気、障害、失業といった理由で制度を利用しているのだが、それでも軽蔑はとまらない。

生活保護は社会を食いつぶす制度ではない。それでも否定されるのは、貧困層が「役に立たない存在」として見られているからだ。つまり、問題は行動ではなく、存在そのものに向けられる。

ある女性が私に言ったのは「仕事を失って無職になっておカネに困ったことになったら、まわりの態度が変わったのが肌感覚でわかった」と言ったことがあった。「誰もが私を避けるような感じになった」というのだ。

もしかして、カネを貸してくれと言われる前に距離を置こうと思ったのかもしれない。彼女にとってそれは、社会的な格下げを食らったような思いだったに違いない。

この感覚は知っている。スリランカで知り合った女性はそういう扱いを露骨に受けていた。(ブラックアジア:物乞いで生きていたシャーミカに向けられた差別はどのようなものだったか?

貧困は、やがて社会に嫌悪や差別を生み出すのだ。

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いじめを共有するようになるのと似ている

貧困層があふれ出していくと、彼らに対する嫌悪や偏見や差別が人々の感情の中に生まれてくる。この現象を「アポロフォビア」と名づけたのは、スペインの哲学者であるアデラ・コルティナだった。

人は無意識のうちに、「機能する存在」と「機能しない存在」に分ける。働き、税を納め、消費し、将来性がある者は機能する側に分類される。一方で、失業し、病を抱え、高齢で、助けを必要とする者は機能しない側に回される。

そのような分類をすると、「機能しない存在」は邪魔で、うっとうしい存在になっていき、やがて嫌悪や偏見という感情とリンクしていくのだ。

日本では学校で「いじめ」が定着していて、クラスに要らないと思われた学生はまわりから無視されたり、不当に殴られたり蹴られたりする。学校の中で起きていたあの「いじめ」が今度は社会で貧困層を相手にするようになる。

人々は、その人が「経済的に役に立つかどうか」を推し量り、役に立たないと思った人間に対しては、説明もなく無視したり暴行したりするようになる。ここで重要なのは、その個人を憎まなくても排除は成立する点だ。

貧困という世界に属している人間だと判断されれば、嫌悪していくのだ。

アポロフォビアのやっかいなところは、善良な人間ほど加担しやすい点にある。社会に役に立たないのであれば排除されて当然だと無邪気に思い込む。少なくとも「自分とかかかわってほしくない」ので無視していく。

多くの人たちがそのように思うようになっていけば、おのずと貧困層は社会そのものから排除される格好になっていく。この段階で、貧困嫌悪は個人の性格の問題ではなくなる。社会全体が共有している価値観になる。

本人は意地悪をしている意識はないのかもしれない。ちょうど学校のクラスで誰かがいじめで無視されていて、自分も悪気はないけれどもまわりに同調して話さないようにしていたら、いじめを共有するようになるのと似ている。

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アポロフォビアが広がる社会というのは?

貧困の人々を低く見るアポロフォビアが生まれると、それは社会の枠組みの中に組み込まれて固定化される危険性がある。カネを稼ぎ、消費し、成果を出す者が評価される世界では、それができない者は自然に見下されていく。

弱肉強食の資本主義の中で判断基準がそうなっている以上、避けられない。

今も、そうなりつつあると私は考えている。高齢化が進み、医療や福祉の負担が増え、他にも働けない人が増えるほど、現役世代は自分たちに過大な負担がかかることに大きな不満を抱く。

すでに国民負担率は5割近くになっている。しかし、これから貧困層がもっと増えていくのであれば、国民負担率が6割以上になっても驚かない。現役世代からは心の余裕なんか消えていくだろう。

余裕が失われた社会ほど、経済的に役に立たないと見なされた人間に対して冷淡になる。高齢者に冷淡になり、心身に障害を持つ人たちに冷淡になり、子供をひとりで育てているシングルマザーに冷淡になり、いろんな事情で貧しくなってしまった人に冷淡になる。

この冷淡な視線は、いずれ攻撃的な言葉となり、排除となり、偏見となる。

今の日本人は他の国とは違ってまだ排除や偏見も露骨ではないかもしれない。だが、誰もが余裕を失うと、態度はきつくなっていくだろう。価値がないと判断された人間は、乱暴に切り離される。

社会は分断される。

もっとも、そうなったら今度は持たざる者が社会に対して復讐する局面も生まれる。カネを見せびらかすような生き方をしている人間が狙われるようになっていく。「持っている人間から奪うのがなぜ悪い?」と彼らは開き直るだろう。

アポロフォビアが広がる社会というのは、そういうことなのだ。

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