
最近、タイ入国管理局は「ビザラン」を繰り返す外国人への対策を強化している。私が好きだった1980〜1990年代のタイは、ふらふらと生きている外国人にとっては、非常に自由度の高い国であった。空港でも国境でも手続きは簡素で、確認項目も少なかった。あの頃のタイはもう消えてしまったようだ。(鈴木傾城)

プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)
作家、アルファブロガー。著書は『ボトム・オブ・ジャパン』など多数。経済分野を取りあげたブログ「フルインベスト」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」を運営、2019、2020、2022年、マネーボイス賞1位。連絡先 : bllackz@gmail.com
ビザランはすでに約2900人が拒否されている
かつて、タイに長期放浪していた男たちは、滞在期間がギリギリになってくると「ちょっと出てくる」と言って隣国のマレーシアやカンボジアやミャンマーに出国してほとぼりを冷まして戻るというのを普通に繰り返していた。
日本人のバックパッカーが沈没していたヤワラーやカオサンでは、そうやって1年くらいぶらぶらしている男が普通にいた。日本人だけでなくファラン(外国人)たちも、そうしてた。
このようにタイに出たり入ったりする人たちを、ファランたちはいつしか「ビザラン(VISA RUN)」と呼ぶようになっていた。ビザを取るために隣国に走って急いで戻ってくるのを「RUN」と表現したのだろう。
最近、タイ入国管理局は「ビザラン」を繰り返す外国人への対策を強化している。
なぜ、すぐにタイに戻ってくるのかきちんと説明ができない「2回以上の出入国者」は、基本的に入国拒否とされる。昔のタイはそういう規則があっても、無害そうに笑って機嫌を取るとか、ワイロをそっと払うかでなんとかなってしまったが、今は厳しく突っぱねられるらしい。
すでに約2900人が拒否されているという。
ビザラン後の滞在延長は厳格審査となり、不許可や許可取り消し、国外退去も対象となる。不法残留者へのいっせい取締りや監視リスト該当者の再入国禁止も実施し、タイの入国は簡単でなくなりつつある。
本当にタイは変わってしまったのかもしれない。本来はそれが当たり前なのだろうが、行儀の良い国になってしまった。
私が好きだった1980〜1990年代のタイは、ふらふらと生きている外国人にとっては、非常に自由度の高い国であった。当時の政府は、出入国の管理を現在ほど厳格にしておらず、空港でも国境でも手続きは簡素で、確認項目も少なかった。
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ディープサウスのビザランをしていた
当時の入口はバンコクのドンムアン空港だったが、日本から到着すると入国カードの提出とスタンプの押印だけで何か言われたことは一度もない。あまり詳しく覚えていないのだが、当時は観光ビザなしでの入国は30日だったような気がする(あまりよく覚えていないが……)。
それで、オーバーステイになりたくなければ、いったん国外に出なければならないのだが、私はマレーシアを選び、列車や長距離バスを使って、タイの深南部の街を散策するレートを選んでいた。
スンガイコーロクからマレーシアに入り、マレーシアで一週間くらい時間をつぶしたあとにタイに戻る。国境の入国審査は本当にルーズで、職員もやる気がなく、駅の改札をくぐるくらい簡単だった。
当時は、定期的に隣国へ移動して滞在期間を延ばすのは、自然なものとして受け入れていたのだ。私の知り合いは、バスでカンボジアやラオスに向かい、国境の小屋でスタンプを押してもらい、そのまま引き返していた。
バンコクからはマレーシアに行くよりもカンボジアに入ったほうが楽なのだが、私はスラータニやハジャイが気に入っていた。とくに国境の街スンガイコーロクは大のお気に入りだったので、いつもディープサウスのビザランをしていた。
あの頃のタイは物価が安かったが、スンガイコーロクもまた驚くほど物価が安かった。どこか荒涼としたアジアの原風景があったのが、それがたまらなく好きで、さらに現地の人たちしか知らない歓楽街もあったりして離れがたかった。
一時期はバンコクよりも深南部(ディープサウス)に沈没していた時期のほうが長かったくらいだ。頻繁な出入国が問題視されていたら、タイに長期滞在もできず、私もこんなに東南アジアに惹かれることもなかっただろう。
そう考えると、あの頃の「緩さ」というのは実は貴重なものであったというのがわかる。
旅人の気ままな滞在は、実質的に保証されていた。タイも長期でぶらぶらしている観光客を野良犬みたいに放置してくれていたわけで、その環境は、放浪者にとって理想的な拠点でもあった。
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もうタイは放浪者には魅力的ではない
だが今はもう昔の話になったらしい。今年だけで約2900人の外国人が、空港などの入国審査場で入国を拒否されたという事実は、もはや昔のような牧歌的な雰囲気は完全に消えたということなのだろう。
国境管理は、いまや人間の判断からシステムの判断へと完全に移行している。審査官の機嫌を取っても無駄だ。報道によれば、入国審査は混雑時であっても「1人あたり最大45秒程度」で処理されるよう運用されているという。
人間の審査官が、パスポートのスタンプを一枚一枚確認し、旅行者の旅程を聞き取り、その信憑性を判断するのに45秒で足りるはずがない。
今は、パスポートをスキャンした瞬間に、過去の出入国履歴、滞在日数、ビザの種類といったデータが瞬時に照会され、「ビザラン」の疑いがあるパターンに該当すれば、即座に弾かれる。
現在の管理体制は「出国してすぐに戻る」という行為そのものを、不正のシグナルとして定義づけている。「観光が好きだから」「タイの友人に会いにきたから」といった主観的な理由は、もう通用しない。
一度システムにマークされれば、別の空港から入国しようとしても、あるいは陸路に切り替えても、結果は同じだ。ネットワーク化された入国管理システムは、国内のあらゆる検問所で情報を共有している。
入国拒否者されたビザランの人間は、以前と同じ感覚でチケットを取り、以前と同じように入国できると信じていたに違いない。だが、もう時代は変わってしまった。
こうやって、徐々に徐々に、しかし確実に厳しくなっていく入国の状況を見ると、かつて私が経験していたような、適当さは消えて、どこか冷たく事務的で高圧的な国になっていくような気持ちになる。
もちろん、そうやって観光客を管理するのが正しいのだが、ふらふらとさまよいながら生きていた人間にとっては、タイという国は敷居が高くなったのは間違いない。物価も上がったし、もうタイは放浪者には魅力的ではない。
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だらしなく生きている男は要らない
世界はすでにどこもインバウンドの時代となり、オーバーツーリズムが深刻化している。観光立国であるタイもそうだ、だからタイ政府も「入ってくる旅行者を選びたい」というフェーズに入っている。
タイ政府の言葉で言うと「質の高い観光客」を受け入れたい。得体の知れない安宿で日がな一日何もしないでぶらぶらしている放浪者や、歓楽地で酒を飲んで現地の最底辺の女性とだらしなく生きている男は、もうお呼びではない。
表向きは、近隣国を拠点とする詐欺グループや、犯罪にかかわる外国人の排除という正義を掲げている。だが、それは「経済的な貢献度の低い外国人」をフィルタリングするための冷徹な選別作業にもなっているのだ。
念のために言っておくと、タイ政府が定義する「質」とはマナーや教養のことではない。それは単純明快に「落とすカネの額」を指している。
一泊数百バーツの安宿に泊まり、屋台の食事で済ませ、ビザランを繰り返して長期間居座るバックパッカーや沈没者は、もはやタイにとって歓迎すべき客ではない。彼らは「質の低い」存在として、排除の対象となった。
タイ政府は、観光で効率的に稼ぎたい。限られた入国審査のリソースやインフラを、有効に使いたい。とすれば、大きなカネを落とさない「ビザラン」常習者のために割くことは無駄でしかない。ふらふら放浪している旅行者の経済効果など、たかが知れている。
それなら、富裕層を入れたほうがいい。短期滞在で高級ホテルに泊まり、ショッピングモールで高額な消費をおこなう富裕層や中間層のほうが、長期滞在の貧乏旅行者よりも圧倒的に時間当たりの収益性が高いので、そちらを優先的に受け入れたい。
そうやって、タイはだらしない放浪者も、カネのない沈没者も、慎ましく旅を続けたいだけの無害だが貧乏な旅行者もみんな一掃して、とにかく派手にカネを落としてくれる裕福な旅行者だけを歓迎するようになっていく。
私の知っていたあの桃源郷のようなタイは、ますます消えていきそうだ。残念だが、もうそういう時代なのだろう。







コメント
> 私の知っていたあの桃源郷のようなタイは、
> ますます消えていきそうだ。
> 残念だが、もうそういう時代なのだろう。
その代わり、今度は日本が「桃源郷」になっていくのでは?
外国(欧米先進国だけでなく、アジアの新興国も)の人間にとっては、通貨(日本円)は安く買えるし、食べ物や酒は種類が豊富で安くて旨いし、宿泊施設も安く使えるし、ついでに不動産や女も安く買えるし。
治安が良い上に、行政や警察は外国人にはめっぽう甘いし。
当然ながら、大多数の日本人にとっては、この国は桃源郷なんかではなく、地獄になっていくのだろうけれど。
タイに沈没してみたいと思っていたのに、鈴木様がいた頃のようなタイが消えてゆくのは残念です。
最も私は女性なので歓楽街には興味がありませんが、タイの観光地を巡りたいです。
1990年代や2000年代に円が強かった時は、
日本で1ヶ月バイトして、そのお金で1年の残り11ヶ月はタイなど東南アジアで遊んで暮らす、のような生活をしてる若者がいたものでした(私ではないですが)
円が弱くなってしまった今としては、それもまた昔の夢の時代になってしまいました
ゆるゆるだらだらと滞在する放浪者は、今まではタイ政府にとって有益ではないにしろ無害だという扱いだったのでしょう。たまには市場に金を落とすこともあるわけだし。
なんらかの事情により自国にいられなくなった訳アリの輩がしばらく身を潜めてほとぼりを冷ます、バンコクにはそんなイメージがありました。私も未来にそんな目的でタイに滞在することになる可能性もあるのかなぁと思っていましたが、これからはそれも難しくなるのでしょうね。まあ、そんな風にタイ王国を使うなって話ですが。
怪しくも滞在者にとってゆるい雰囲気の魔都バンコク(失礼)も変わっていくのでしょうか。タイも社会のホワイト化が進むのかと思うと少し寂しい気もしてきます。