
「今までと変わらず普通に暮らしているのに、どういうわけか最近は生きにくい」というのは、時代に取り残されてしまったところに原因があることも多い。「自分の立ち位置」が時代に合うかどうかだけで人生は180度違ってくる。定期的に自分の立ち位置を考えるのはとても重要なことだ。(鈴木傾城)
プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)
作家、アルファブロガー。著書は『ボトム・オブ・ジャパン』など多数。政治・経済分野を取りあげたブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」を運営、2019、2020、2022年、マネーボイス賞1位。 連絡先 : bllackz@gmail.com
気づいたときには手遅れになっている
昨日と今日は同じ日に見えるかもしれないが、時代は刻々と変わっている。時代が変わっていくとき、取り残される側の方にいると必要以上の苦労が延々と続く。
取り残される側に踏みとどまって努力することもできるが、その人生はけっして楽ではない。どんな優秀な人であっても、取り残された業界では、「労多くして実りが少ない」結果に追い込まれる。
一方、これから伸びていく側の方にいると、それほどの努力をしなくても楽に生きていける。多少の失敗くらいは何の問題も起きないくらい大きな利潤が得られる。優秀でなくても、それなりの結果が得られることも多い。
「自分の立ち位置」が時代に合うかどうかだけで、人生は180度違ってくる。理不尽だが、これは事実だ。場合によっては、自分の立ち位置を思い切って変えなければ死ぬ。
これは、今に始まったことではない。人間を取り巻く環境は常に変わるのだから、いつの時代でも起こっている悲喜劇だ。たまたま、時流に乗ったか乗らないかで人生の明暗が決まる。
それを強く意識するかしないかは別にして、普通の人もなんとなくうっすらとそれを感じ取っている。だが、時代の変化に敏感に反応し、自分の立ち位置を変えられる人は多くない。
その理由はいくつかある。
まず、人は慣れ親しんだ環境や業界を手放すことに強い抵抗を覚える。安定した現状を維持したいという本能が働くのだ。また、変化の兆しが見えても、それを本気で危機と捉えず、楽観視してしまうことも多い。
その結果、気づいたときには手遅れになっている。
デリヘル嬢の多くは普通の女性だった。特殊な女性ではなかった。それは何を意味しているのか……。電子書籍『デリヘル嬢と会う:あなたのよく知っている人かも知れない』はこちらから。
消えていく職業はたくさんある
かつて「電話交換手」と呼ばれる職業が存在した。今ではほとんど耳にしない言葉だが、電話の歴史をたどると、この職業は通信の黎明期を支えた重要な存在だった。
電話が普及し始めた頃、電話回線は現在のように自動でつながるものではなく、発信者と受信者を手動で結びつける必要があった。その役割を担っていたのが電話交換手である。
電話交換手は、利用者がダイヤルすると受話器を取って「はい、交換手です」と応じ、相手先の番号を聞き取ったうえで、物理的にプラグを差し替えることで通信を成立させていた。
この作業は非常に神経を使うもので、間違いなく迅速に接続することが求められた。また、利用者にていねいに対応することも重要視され、地域社会のコミュニケーションを陰で支える役割も果たしていた。
だが、技術の進歩とともに、電話交換は自動化されていった。ダイヤル式電話機や自動交換機が登場し、人手を介さずに電話がつながるようになった。これにより、電話交換手の仕事は徐々に減少し、やがて消滅した。
かつて「氷屋」と呼ばれる職業があった。まだ冷蔵庫が普及していなかった頃、氷屋は夏になると大繁盛していた。クーラーもなければ冷蔵庫もない時代、氷屋が運んでくれる氷は、まさに生活の上で必要不可欠なものだったのだ。
しかし、この氷屋も、三種の神器のひとつとして冷蔵庫が爆発的に普及するようになってから徐々に姿を消すようになった。
まだ流通網が構築されていなかった時代は、「行商」もまた重要な職業だった。昔は今のように情報すらもなかった。どこに何が売っているのかわからない、どこに買いに行ったらいいのかわからない、何という商品があるのかわからないのは当然だったのだ。
そのため、さまざまな商品を抱えて家の玄関まで持ってきてくれる「行商」は、商品を知るという意味でも、各地の情報を聞けるという意味でも重宝されていた。要らないものを押しつけられるという側面もあったが、それよりも必要だったものが手に入るという利便性の方が勝っていた。
しかし、この行商も大量生産時代に入ってスーパーマーケットのような店が爆発的に広がるにつれてどんどん廃れていき、やがて消えてしまった。
時代の波に流されて消え去ってしまった職業は山のようにある。今後も時流に遅れて消えていく職業は次々と出てくる。
鈴木傾城が、日本のアンダーグラウンドで身体を売って生きる堕ちた女たちに出会う。電子書籍『暗部に生きる女たち。デリヘル嬢という真夜中のカレイドスコープ』はこちらから。
変化と淘汰のスピードが加速している
時代はいくらでも変わる。どこの国でも、どこの産業でも、いつの時代でも、毎回、同じことが繰り返されている。だが、人は時代が変わったからと言ってすぐに変われるわけではない。
人間は自分が長くやってきた仕事に対して誇りを持っているし、慣れているし、その世界を愛している。そのため、自分のやっている仕事の先行きが暗いと気づいても「いけるところまで」と考えて同じことを続ける。
そして、いよいよその仕事に対しての凋落が見えてきたとしても、長らくそれをやってきたので、もうそこから抜け出せなくなっている。そして、本当にどうにもならなくなって最後に淘汰されてしまう。
現代はこの変化と淘汰のスピードが異様なまでに速くなっている。そのため、昔よりも今の方が危険になっていると言える。うかうかしていると、私たちはあっという間に取り残されてしまう。誰もが例外ではない。
問題は、時代はどんどん変転していくのに、人間の意識はそう簡単に変えられないことだ。20代ならいざ知らず、30代、40代、50代と歳がいけばいくほど、自分が長くやってきたことにこだわりが生まれる。
淘汰される側にあると気づいても、捨てられない意地が生まれる。自分が変われなくても時代は容赦しない。その結果、何をやっても努力が裏目に出るという恐ろしい目に遭わされる。
浜辺の砂で作った城と同じで、砂を積み上げても積み上げても時代の波が襲いかかって来て、そのたびに崩れてしまうのだ。
時代に合った側に立つと、努力すればするほど報われるのに、時代に合わない側にこだわると、努力は一向に報われないという地獄を見る。時代の流れというのは、それほど恐ろしいものなだ。
時代の中心になっているコアの部分
ワープロが爆発的流行していた時代に、手書きにこだわっていた人がいたのは覚えているだろうか。パソコンが爆発的普及していく時代に、「あんなものは下っ端に使わせればいい」と言っていた経営者がいたのは覚えているだろうか。
インターネットが当たり前になり、メールでビジネスが進む時代になったのに、つい最近まで「電話とファクスじゃないとだめだ」と、変なところにこだわる業界があったのは覚えているだろうか。
スマートフォンでインターネットが手のひらにまで来ているのに、ガラケーにこだわってイノベーションから立ち遅れてしまった人がいるのを覚えているだろうか。今後、AIがより進化して社会に組み込まれていくと、AIを使わないで生きている人は決定的に時代遅れになってしまうだろう。
時代に取り残されたいと思うような人間はひとりもいない。だが、それでも遅れる人は絶対に出てくる。
時代に遅れると何が問題なのかと言うと、だんだん食べていくことができなくなる上に、時代の恩恵も受けられなくなり、その上に時代がどの方向に進んでいるのか読めなくなってしまうことにある。
「今までと変わらず普通に暮らしているのに、どういうわけか最近は生きにくい」というのは、時代に取り残されてしまったところに原因があることも多い。「自分の立ち位置」が時代に合うかどうかだけで人生は180度違ってくるというのは、そういうことなのだ。
時代に乗るというのは、流行語を覚えるとか、その時代の珍妙なファッションを真似るという意味ではない。そんなものはどうでもいい。
必要なのは、時代の中心になっているコアの部分が何かを知り、理解できるように勉強をし続け、そこに自分のポジションを移していくことである。時代はどんどん変わっていく。生き延びるには、ある種の危機感が必要だ。

これは女性のファッションにも同じことが言えますよね。
確か昭和の時代は着物にこだわっていた日本人女性はそれこそ多かったはずです。
しかし、着物は生地が分厚く仕立ても複雑なので着衣に時間がかかり、なおかつ洗濯や物干しが非常に手間がかかるので、今現在のような洋装を選んだ女性は賢明だと思います。
個人的で身勝手な感想ですが、インド人女性は現代でもサリーを着ていただきたいです。
確かに着衣は面倒ですが、生地が薄いので洗濯や物干しが着物に比べてずっとしやすいからです。