あまり認めたくない人もいるかもしれないが、何かの場面で助かるかどうかは、その人が善人や正しい人であるかどうかとあまり関係がない。悪行の限りを尽くしてのうのうと生き残る人間もいれば、善の限りを尽くしても非業の死を遂げることもある。そういう現象がある。(鈴木傾城)
プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)
作家、アルファブロガー。著書は『ボトム・オブ・ジャパン』など多数。政治・経済分野を取りあげたブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」を運営、2019、2020、2022年、マネーボイス賞1位。 連絡先 : bllackz@gmail.com
運の良し悪しで助かるか死ぬかが決まる
第二次世界大戦中のノルマンディー上陸作戦は、待ち構えていた敵兵の弾丸が飛び交う地獄の戦場であったことで知られている。アメリカ軍兵士ヒュー・クレッグもその中にいたのだが、このときに敵の激しい銃撃をかいくぐる中で胸を撃たれてしまった。
ところが、ヒュー・クレッグは胸ポケットに金属製のポケットバイブルを入れていた。そこに銃弾が直撃したので、それが心臓に届くのを防いだ。間一髪で、奇跡的に助かった。
2000年代初頭、アフガニスタンで紛争地域を取材していた戦場ジャーナリスト、セバスチャン・ユンガーは同行予定だった車両に乗らず、別のルートを選択した。彼が予定していた車両はその後地雷に遭遇し、大きな被害を受けたが、彼自身は無傷だった。
ヒュー・クレッグもセバスチャン・ユンガーも、自分の能力やスキルとはまったく関係のないところで、運の良さで助かった。
一方で運の悪かった例もある。第一次世界大戦の引き金となったのは、フランツ・フェルディナンド大公の暗殺なのだが、彼は1914年にサラエボを訪問中に襲撃されて命を失っている。
しかし、暗殺者たちの最初の襲撃に失敗しており、大公夫妻は無傷で別の予定に向かうはずだったのだ。ところが、運転手が道を間違えて暗殺者が待ち伏せしていた路地に入り込んでしまい、結果的に命を奪われることとなった。
本当は死ななくてもいい運命だったのだが、わざわざ暗殺者がいるところに入り込んでしまったので殺されてしまった。
運の悪さの極めつけで私がいつも思い出すのは「稲妻に愛された男」こと、アロイス・アルツァーのことだ。彼は複数回雷に打たれながらも奇跡的に生き延びてきたのだが、最終的には農場で働いているときにふたたび雷に打たれ、その場で命を落とした。
世の中には、こういう人間もいる。
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運が良いとしかいいようがない人がいる
誰でもそういう「運の良し悪し」は経験するはずだ。どんなに気をつけていても、交通事故に遭う人は遭うし、何も考えていなくても交通事故に遭わない人もいる。交通事故などは、ほんの数秒の違いで起きなかった例ばかりである。
墜落する飛行機に乗り合わせてしまった人もいれば、何百回も飛行機に乗り、途上国で現地の危ないバスやタクシーに乗り、交通ルール無視のバイクにまたがり、それでも交通事故に巻き込まれないですむ人もいる。
助かる人は、べつに助かる準備をしていたとか、身体を鍛えていたとか、理性的に行動したというわけではない。また、精神的に強靭だったとか、ストレスに強かったというわけではない。まして、日頃の行いが良かったわけではない。
ただ単に、運が良かった。それだけだ。
そういえば、タイの歓楽街でたった一度のかかわりで、性病に感染した人もいた。最初の一度で性病感染はさすがにショックが大きいに違いない。
「コンドームはしなかったのか」という疑問もあるかもしれないが、コンドームも完全ではない。歓楽街はアルコールもしこたま入っているし、誰もがうまく安全なセックスができるわけではないのだ。
ある人はコンドームをしていたにもかかわらず淋病にかかったと話す。貧困地区の売春する女性の中には「コンドームがもったいない」といって、洗って使い回しすることがあるのを彼は知らなかった。
1999年前後、私はプノンペンの売春地帯に入り浸っていた。しかし、私は致命傷を負わずに切り抜けた。プノンペンの売春地帯で逮捕された人も殺された人もいる。交通事故に巻き込まれて死んだ人もいれば、騙されて無一文になった人もいる。
私は助かったが、助からなかった人もいる。誰が助かって、誰が助からなかったというのは、特に何らかのパターンがあるわけではない。単なる「偶然」が作用していただけというのが現実だ。
一歩間違えれば大きなケガをしていてもおかしくないのに、本当に奇跡的な偶然で大丈夫だった人もいたりする。それにしても、運の良い人だ。
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正しい人かどうかも関係ない
あまり認めたくない人もいるかもしれないが、何かの場面で助かるかどうかは、その人が善人なのか、正しい人だったのかも、あまり関係がない。
宗教家にいわせれば、運が良い悪いも、因果応報ということになるのだろう。だが、人生と運命は因果応報では語れない。悪行の限りを尽くしてのうのうと生き残る人間もいれば、善意の限りを尽くしても非業の死を遂げることもある。
カンボジア国民を100万人も大虐殺したカンボジアのポル・ポトは、地雷に囲まれたジャングルの中で仲間と共に暮らし、73歳まで生存していた。意外に長生きした。
大虐殺者であるソビエトのヨシフ・スターリンも75歳まで生きている。人類史上に残る大虐殺者ならさぞかし早死にするのかと思ったら、まったくそうではない。
悪人であっても長生きする人はする。逆に「正しい人」であっても悲惨極まりない人生の中で死ぬ人も多い。「正しい人」になっても、良運が向くわけではない。多くの人は、このあたりを本能的に間違っている。
「良いことをしたら良い結果が返る」といわれたら、戦争で死んでいった人たちや、虐殺に遭った人たちや、内戦で悲惨な人生を送るしかない人たちを思い浮かべて疑問を持たなければならない。
ドイツで虐殺されたユダヤ人は誰ひとりとして良いことをしなかったのだろうか。広島・長崎の原爆で死んでいった約40万人の日本国民は誰ひとりとして良いことをしなかったのだろうか。
そんなことは絶対にない。無残に殺された人たちの中には、誰よりも善人で、誰よりも神仏を信じ、誰よりも正しい行いをして生きてきた人も多かったはずだ。「良いことをしたら良い結果が返る」という因果応報は、客観的に考えると成り立たない。
つまり、善行を積もうが、神をどんなに信じようが、金持ちだろうが貧乏人だろうが、楽観的にいようが、運の良し悪しにまったく何の関係がない。
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世の中は正誤が決まっていない
世の中はテストの問題のように正誤が決まっている問題ばかりではない。選択と決断の正誤がわからないことも多い。その決断で、幸せになれるのか不幸になってしまうのかは誰にもわからない。結果が出てわかることだ。
転職問題であっても、「今の仕事を続けたほうがいいのか、辞めたほうがいいのか」は、どちらを選んでもそれが正しかったのか誤っていたのかはわからないし、結婚問題であっても、選んだ配偶者が正しかったのか間違っていたのかは選んだ時点ではわからない問題である。
誰もが「こちらのほうが正しい」と思って決断するが、それも間違っている可能性は十分にある。
そう考えると、運の良し悪しというのは、意外に私たちの人生を決める大きな要素であると気づく。運が良ければ何もしなくても運の良い人生になる。運が悪ければあきらめるしかない人生になる。
そういうのを私はさんざん見てきたので、「人生は最期の瞬間までわからないものだ」と思っている。
やりたいようにやり、正しいと思う選択をして、運が良ければ良いことが起こるし、運が悪ければそれなりのことが起こる。それが自分の運命なのだから、じたばたしても始まらない。
どうすればいいのか。
結局のところ、自分で考え、自分で決断し、やりたいようにやればいい、と思う。それしかない。それで運が良い結果になれば儲けものだし、地獄に堕ちたら「運が悪かった」ということになる。
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