
国連が発表しているデータに「後発開発途上国」のリストにカンボジアが載っている。カンボジアはずいぶん豊かになったように見えるのだが、国連から見るといまだに後発開発途上国らしい。もっとも、後発開発途上国の全員が不幸だというわけでもないし、先進国の人々がみんな幸福でもない。(鈴木傾城)
プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)
作家、アルファブロガー。著書は『ボトム・オブ・ジャパン』など多数。政治・経済分野を取りあげたブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」を運営、2019、2020、2022年、マネーボイス賞1位。 連絡先 : bllackz@gmail.com
国連が「後発開発途上国」と呼ぶ国とは?
国連が発表しているデータに「後発開発途上国」のリストがある。後発開発途上国とは、発展途上国の中でも特に開発が遅れている国、言ってみれば「最貧国」の国々を指す。
国連が「後発開発途上国」と呼ぶのは、次の3つが当てはまった国である。
1. 所得が低いこと。
2. 人的資源が低いこと。
3. 国としての機能が脆弱であること。
「人的資源が低い」とは、国民の栄養・健康状態や幼児死亡率、教育水準(就学率や識字率など)が低く、人材の技能・知識が十分に育成されていない状態を指す。国としての機能が脆弱というのは、自然災害や国際市場の価格変動などに弱く、経済や社会が耐えられない国を指す。
わかりやすく言うと、国民の平均年収約14万円以下で、食べ物も医療も充分ではなく、教育も劣後し、国のインフラも整っておらず、何かあればすぐに国民が困窮してしまうような国々を「後発開発途上国」と呼んでいる。
国連は、どの国がそれに当てはまるのかを3年ごとに見直しをおこなって発表しているのだが、最新のデータは2024年12月のものだった。現在、44か国が後発開発途上国と指定されている。
44か国もそんな国がある。意外に多いと感じる人が大半のはずだ。その多くは、アンゴラ、チャド、エチオピア、中央アフリカ、スーダン、ザンビア、ウガンダなどのアフリカ諸国なのだが、アジアも9か国含まれている。
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世界全体で見ると、4分の1が最貧国の状態だ
アジアの「後発開発途上国」とは、以下の国々である。ちなみに最後のイエメンは私たちの感覚からすると遠い中東の国なのだが、国連の分類ではアジアに入る。
1. アフガニスタン
2. バングラデシュ
3. カンボジア
4. ラオス
5. ミャンマー
6. ネパール
7. 東ティモール
8. イエメン
このデータは2024年12月の最新版だが、東南アジアではカンボジア・ラオス・ミャンマーが含まれている。カンボジアはずいぶん発展したように見えるのだが、それでも統計データから見ると「貧困」ということになるのだろう。
世界全体で見ると、44か国が後発開発途上国になっているが、国連加盟国は現在193か国だから、ほぼ4分の1が後発開発途上国であるということがわかる。
もっとも、このデータを眺めて思うのは、たしかに資本主義社会から見ると物が不足して国民の所得が低い国々かもしれないが、国民が不幸のどん底にいるとは限らないかもしれないということでもある。
ラオスやカンボジアは、たしかに貧しい。しかし、貧しいなりに人々は何とかやっているし、田舎ではそれなりに自給自足経済が発達していて、その圏内で生きる限りは絶望的な貧困で苦しんでいるというわけでもない。
場所によっては電気もガスも水道もインフラも整っていないという意味では貧困なのだが、自然の恵みをそのまま生活に取り入れることに成功している地域では、それこそ先進国の貧困者よりも豊かな生活をしていることもある。
逆に先進国の貧困層は社会からも見捨てられており、自然の豊かさも享受できず、絶望の中にある人も多い。

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物々交換と自給自足というのは資本主義の敵
物々交換と、自給自足というのは、資本主義では捉えられない豊かさである。海に住む人と山に住む人が、互いの魚と山菜を取り替えると、そこでは物は回っているのだが、それは資本主義では捕捉できないので「なかったこと」になる。
なぜ、なかったことになるのか。資本主義は、すべてをいったん貨幣経済に組み入れて、カネで物を買うことができるかどうかで豊かか貧しいかを決めるシステムになっているからだ。
大量の魚があっても豊かではない。大量の果物が採れても豊かではない。アフリカでは、どれだけ牛を所持しているかで豊かさが決まる村もあるのだが、資本主義社会では牛ではなくカネが重要だ。
豊かかどうかは、カネがどれだけあるのかで決められる。そのカネはさまざまな経済行為の元手になるものなので「資本」と呼ばれる。
現代社会では、その資本こそが唯一絶対のものとして社会の基盤になった。だから、資本「主義」なのだ。
資本主義が成り立つためには、資本を通さない活動は排除される。物々交換や自給自足は資本を通さないので、それは資本主義とは相容れないものだ。したがって、それは叩き潰される仕組みになっている。
どのように叩きつぶすのか。簡単だ。カネを出さないと手に入らないものを大量にそこで流通させるだけだ。道路を作り、電気ガス水道を整備し、カネでしか対価を受け取らないようにすれば、誰もがカネを手に入れたいと思うようになる。
その瞬間、どうなるのか。そこではカネだけが不足しているので、突如として「貧困」として区分けされるようになっていく。
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それは世界を支配する絶対的な主義になった
自然が豊かで、物々交換も自給自足もできていた国や地域が資本主義社会で遅れを取ったのは別に不思議なことではない。資本主義がなくても生きていけた社会だったから、それに乗り遅れた。
結局、資本主義が全世界を覆い尽くしてそれが社会を支配するものになってしまうと、気がつけば自給自足で食べて行けた者が貧困になってしまった。
資本主義は、なるほど自給自足よりも物々交換よりも効率的で便利なものだ。しかも世界中で互換性があって効率的だ。だから、それは世界を支配する絶対的な主義になっていった。
どんなものでもカネで交換できるシステムになったので、「カネこそすべて」と言い出す人間まで出てくるようになった。そして、カネをどれだけ持っているかで「人間としての価値」が決まる社会となっていった。
「カネがすべてではない」と言われても、資本主義社会に生きる人間は誰も信用しない。それはきれい事にしか聞こえない。なぜなら、カネがなければ、何もできない社会になっているからだ。
かくして、豊かな自然、豊かな恵みの中で生きていける国々が「最貧国」と呼ばれて嘲笑されるようになり、ブラックホールのように世界中のカネを吸い込む国が「先進国」と呼ばれて尊敬されるようになった。
「カネこそすべて」であるということが全世界の人間が理解したのであれば、次に起きるのは豊かな国に目がけて人間が殺到するという現象だ。そして、その先進国の中でカネを奪い合うようになり、豊かな国の中で、富裕層と貧困層がどんどん分かれていく動きになっていく。
資本主義の社会では、最終的には富が一点に集中する。資本は最後には誰かひとりがすべてを吸い上げるまで続く。
「先進国と貧困国」の勝負が終われば、次は「富裕層と貧困層」の勝負となり、その次は「富裕個人と貧困個人」の勝負と、どんどん細分化されていく。資本主義は極限まで続き、弱肉強食化していく。

お金が無くても衣食住を援助してくれる人たちがたくさんいる人は最強ですが
嫌われ者でお金も資本が何も無い者たちは救われないでしょう。