カンボジア編
カラカラに乾燥したカンボジアの大地を、ふらふらとさまよう。カンボジアに着いて2日目の昼下がりだった。熱射病で倒れそうになるくらいの強烈な太陽が降り注いでいた。
向かう先は決まっていた。紅土の粉塵が舞い上がる70ストリートである。
いつもはモニウォン通りを北上して芸術大学から入るのだが、この日は毛沢東通りにいた関係上、逆側から入ることになった。
道路のほとんどをアスファルトで固めてしまったタイとは違い、カンボジアはいまだ舗装されていない道路が首都に残る。一日歩けば着ているものが土埃で茶色に染まる。
夜になって顔を洗ってタオルで拭くと、タオルまで茶色になってしまうのだ。やれやれ、と思いながら、それでもなぜかほっとする。
カンボジアにいるという実感がする。そして、これが「カンボジアの色だ」と思う。カンボジアの色は、つまり紅土(ラテライト)の色なのだ。
カンボジアは強烈にアジアを感じさせてくれる国だ。カンボジアの郊外を歩くと、まさに「アジアの原風景」と言うべきものに出くわす。
強烈な太陽がそこにある。舞い上がる紅土が人々を包み込む。道の端にある沼で女性が水浴びをしており、浅い泥沼には一面の蓮が実をつけて花を咲かせている。
子供たちが蝶々を追いかけて笑っている。裸の子供もいる。バラックのような粗末な家をのぞくと、赤ん坊がハンモックに揺られてすやすやと眠っている。
そんなカンボジアの何気ない風景は、「アジアに行きたい」と思うときに思い浮かべる風景そのものである。
だから、カンボジアに来てプノンペン郊外や地方都市を歩くとき、「アジアに来た」と心から思う。それは思わず笑みがこぼれてしまいそうな至福の瞬間なのだ。
ところが皮肉なことに、この紅土の大地は牧歌的であると同時に、凄まじい貧困の象徴でもある。そこいらでぶらぶらしている男たちは失業しているからぶらぶらしているのであって、素朴な風景を満喫しているわけではない。
裸で遊び回る子供たちは本来は学校に行かなければならないはずなのに、貧困のせいで学ぶ機会を失われている。そして、見えないところでは、飢えて動けない子供が粗末な家の中で泣いている。
あるいは……
(インターネットの闇で熱狂的に読み継がれてきたカンボジア売春地帯の闇、電子書籍『ブラックアジア カンボジア編』にて、全文をお読み下さい)

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