夕方の喧噪《けんそう》が続いたまま、夜を迎えようとしているこの日、私はフィリピン首都マニラのキアポ地区の喧噪の中をゆっくりと歩いていた。キアポ教会周辺には、おびただしい数の露店、道わきに座り込んで古びた雑貨を売る物売りがいる。
そこを外れると、今度はくず拾いや、誰彼ともなく手を差し出している物乞いが見える。みすぼらしく汚れた服を着た老婆が黙ってやってきて手を差し出した。どこか哀願するような目つきだったが、金を払うのを拒否すると怒りに変わる。
老婆は何も言わずに去っていった。奥に入っていくと街は急に古びて行った。夕陽が落ちて暗くなればなるほど、危険な臭いが漂いはじめる。
マニラはどこにでも貧しい人間たちが群れをなして暮らしているのを見ることができるが、キアポ地区もまた例外ではない。道ばたで寝ている人々がそちこちにいるのを見て、この国の貧困というものを静かに実感する。
そして、肌にぴりぴりと感じる危険なニオイは貧困者の鬱積《うっせき》であることに思い至る。
私がフィリピンに対してまったくの違和感もなく馴染んだのは、この国の人たちが味わっている貧困の実態が、他のアジアの国とまったく同質であるからだ。キアポ地区には、確かに他の国の貧困街が醸《かも》し出すものと同じ雰囲気を感じさせた。
キアポ地区に限らず、貧困地帯でスリや強盗が減らないのは、絶対貧困の人々が群れをなして存在しているからだ。
彼らは社会に不満を持ち、自らの境遇に不満を持ち、消費できないことに対して怒りを感じている。持たざる側であること、持てる者がいることへの限りない憎しみが貧困地区を犯罪の温床にしている。
それなのに……
(インターネットの闇で熱狂的に読み継がれてきた売春地帯の闇、電子書籍『ブラックアジア フィリピン編』にて、全文をお読み下さい)
何度読んでも、この会話のやりとり、臨場感が
どきどきハラハラします。
夏は海外へ行かれる方たち、気を付けてもらいたいです。
この記事、小説みたいで話の流れがかっこいいですよね。