誰もが過去を振り返ると、自分が幼かった頃、若かった頃の光景を思い出して懐かしく思うはずだ。甘酸っぱかったり、悲しかったり、恵まれなかった時代であったとしても、昔の想い出は郷愁となって胸がいっぱいになるはずだ。
最近、ふとニーノ・ロータの『太陽がいっぱい(Plein Soleil)』が聞きたくなって、YouTubeで検索したら、アラン・ドロンやマリー・ラフォレが出てきて懐かしさにいっぱいになって音楽と共に映像にも見とれてしまった。
アラン・ドロンは子供の頃にテレビでも映画雑誌でもよく目にした俳優だし、マリー・ラフォレは10代の後半の頃に古ぼけた3本立ての映画をやっていた映画館でよく見た女優だ。その顔を見た瞬間に、過去のいろんな瞬間とリンクする。
私は昔のフランス映画が大好きで、フランス人の女優には思い入れがとてもある。(ブラックアジア:自由奔放な女性の世界。印象に残る4つの古いフランス映画)
若かった頃の光景は自分の脳裏の中でおぼろげにしか再現されないが、古い映画を見ると懐かしい人と共に古い光景もリアルに映し出されて、それだけで痺れるような郷愁に浸ることができる。
そう言えば、コロナ禍もあって東南アジアに沈没していた時のことも、何かとても遠い過去のような気がしてきて悲しくなってしまった。考えてみたら、私が初めて東南アジアに没頭したのは、もう30年以上も前なのである。
東南アジアの暗闇で知り合った多くの女たちも深い郷愁として、全体が風化して色褪せながらも、断片だけは突き刺さるように残っている。その断片の想い出に、懐かしさで震えるほど心が揺さぶられる。
いろんな想い出が乱れ散り、前後関係も忘れている。しかし、ある瞬間だけが忘れずに残っている。暗い部屋の中で何気なく見せてくれた女性の表情を不意に想い出すことが多い。それが誰なのか覚えていないのだが、ただ面影だけが残っている。