若い頃、私はタイの首都バンコクにあった東南アジア最大の歓楽街パッポンにどっぷりと入り浸っていた。
いっそのことタイに移住して、朝から晩まで堕落と快楽の境地に溺れて、人生おもしろおかしく暮らそうかと真剣に考えていた日もあった。
実際、パッポンには歓楽地パッポンの堕落に溺れたいがために日本を捨てて、移住していた日本人や白人(ファラン)は大勢いた。
時はちょうどバブルの真っ最中だった。運良く株式市場に出入りしていた私は、それなりに同世代の人間たちが羨むくらいの金は持っていた。しかし、それは人生を一生支えるほどの大金ではなかった。
タイに移住し、遊び暮らすにしても40代にはすっからかんになっているはずだった。いや、タイの海千山千の小悪魔たちに毎日のように金をむしられていたら、30代まで持つかどうかも怪しかった。
そういうこともあって、私は「堕落の街(シン・シティ)」に溺れて生きる決断はできなかったのだが、長くパッポンにいると、むしろ移住なんかしなくてもいいのではないかと思うようになった。
なぜか。歓楽街に長くいればいるほど、「何も感じなくなる」からだ。人間は快楽を追い求める生き物だが、どんな快楽であってもそれが恒常的に手に入るようになると、突如として奇妙なことが起きる。快楽が減退していくのである。
ありとあらゆる快楽が、満たされることによって希薄化してしまう。飽きてしまうのだ。それが、どんなに好きで、どんなに強烈なものであっても同じだ。
その刺激に耐性ができてしまって、感受性を失ってしまうのである。いくらチョコレートが好きだと言っても、朝から晩まで1年365日与えられたら気が狂ってしまうだろう。
いくら名作と言われる映画に感動したとしても、それを毎回見ていると、もう感動も消失して見るのが苦痛に思うようになるだろう。好きな音楽でもそればかり聞くと感動が消える。
セックスも、愛も、何もかもそうだ。恒常的にそれがそこにあると、不意に欲望も疼きも感動も消え去る。