鈴木傾城の「言葉の選択」について。使いたくない言葉、使いたい言葉がある

鈴木傾城の「言葉の選択」について。使いたくない言葉、使いたい言葉がある

鈴木傾城は大量の文章を書いているので、やはり文章に関していろんなことを指摘されたり、質問されたりすることが多い。

最近も「子供」は「子ども」と書いた方がいいのはないかという女性からのメールをもらったので、少し私が思っている文章について書いてみたい。

確かに、行政では「子供」を「子ども」と書くことが多くなった。

どこかのフェミニストが『子供の「供」という字が「お供え物」「お供する」などを連想させ、差別的な印象を与える』と文字狩りに近いことを言い出したので、行政もそれを受けて「子ども」にしたのが原因だ。

これについては、2013年に文科省が「子供で統一する」「子供は差別表現ではない」と表明しているので、「子供」表記を使うのは別に問題があるわけではない。いや、もし仮に文科省が「子どもを使え」と言っても、私は恐らく最後のギリギリまで「子供」の方を使っていたはずだ。

私にとっては「子ども」よりも「子供」の方が自然に見えるからである。実は、この「子どもを使って欲しい」というメールは今回が最初ではない。やはり数年前にもそういったメールを受け取っていた。

その時も私は「子ども」と書くのを断った。行政の文書には今も「子ども」と書かれているものがかなりあって、その場合は私も「子ども」に合わせて表記しているのだが、自分の文章では必ず「子供」を使う。それが私の感覚だからだ。(鈴木傾城)


プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)

作家、アルファブロガー。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」、投資をテーマにしたブログ「フルインベスト」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。(連絡先:bllackz@gmail.com)

障害者、フリーター、ニート、ひきこもり

読者から「この言葉は使わないで欲しい」と言われた言葉は、「子供」以外にたくさんある。私は「障害者」という単語もずっと使っているのだが、この単語もかなりの人から「障がい者」か「障碍者」にした方がいいのではないかと言われたのだが、私は従わない。

障害の「害」は障害者自身を指しているからではなく、社会の障害を指しているという見解を持っているので、害を隠すというのはどう考えてもおかしいと感じている。

もちろん、これも私の感覚でしかないので違った意見があってもおかしくない。いろんな意見があって然るべきだ。

私が「障害者」を「障がい者」と書かないから差別主義者だと思う人もいるのかもしれないが、私はそれを差別だと思う方がおかしいというスタンスでいる。だから障害者は障害者という言葉で書いている。

あと、「フリーター」や「ニート」という言葉を使わないで欲しいと言ってきた人も読者の中にいた。このようなものだった。

『記事の中でフリーターやニートなどの軽薄なカタカナ英語を使うのはやめていただけると嬉しいです』

これと付随して「パラサイトシングル」という言葉も使わないで欲しいと言ってきた人もいる。やはり、流行(はやり)言葉なので使わない方がいいというものだった。

フリーターやニート、さらにパラサイトシングル等の言葉は、人によっては「軽薄なカタカナ英語」と感じる人もいたようだ。しかし、本当にそれは軽薄なカタカナ英語だったのだろうか。

ニートのことを若年無業者、フリーターのことを臨時非正規雇用者などと書けば品があったのかもしれないが、それよりもニート、フリーターという言葉の方が世間の通りが良いように思える上に、私自身はそれが軽薄だとは思えなかったので、それも却下した。

「ひきこもり」という言葉も、実際にひきこもっている読者から「心が痛いので使わないで欲しい」と切実なメールが来たが、私は使い続けている。私自身はその言葉は「使ってはいけない言葉」とは思えなかったからだ。

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私自身は、中国は支那とは呼ばない

「中国という言葉を使わないで支那という言葉を使うべきだ」と言ってくる人は、ひとりふたりではなかった。10人以上いたような気がする。たぶん、これからも言ってくる人もいるように思う。

なぜ「支那」なのか。以下の理由だ。

「中国とは山陽・山陰を合わせた地域のことだ。支那はCHINAであり、それは世界の共通語である。また、中国とは中華思想を示したもので、それを使うというのは中華思想を認めたことである」

なるほど、一理ある。すべて納得できる。しかし、大半の日本人は中国と言えば中華人民共和国を思う。私自身も子供の頃から支那のことを中国とずっと呼び続けて、中国は「中華人民共和国」の略だと思っている。

だから慣行として今も「中国」を使っている。その上、今の時代は支那と言ってもそれが中国だと伝わらないこともあり得る。だから、ずっと「変えてくれ」と非難されているのだが今も変えていない。

ちなみに私は中国共産党政権は歴史から消えるべきだと思っているし、中華人民共和国か崩壊して新しい国ができたら、中国という呼び方は喜んで捨て去る。まずは、本丸の中国共産党政権を打倒するのが筋だ。

同じ理由で、私は韓国人のことを「コリアン」とも「南朝鮮人」とも書かない。どちらの単語も私は今まで使ってこなかったし、韓国人は韓国人と呼ぶのが私にとってしっくり来るからだ。在日韓国人を在日コリアンと呼ぶこともない。

ただし、北朝鮮の人間を差す時は、朝鮮人と使うことはある。南北朝鮮の人たちを差す時は朝鮮民族という言葉を使う。北朝鮮の在日は在日朝鮮人と呼ぶ。私にとっては在日朝鮮人とは北朝鮮の人たちのことである。

最近、韓国人というのは差別用語なのでコリアンを使えという意見も出て来ているのだが、私はたぶんコリアンという単語を使うことは特定の意図がない限りはない。韓国人という言い方の方が私の中では馴染みがあるからだ。

私は自分の感覚で自分がしっくりする言葉を使いたい。そうでないと文章が書けない。理屈というよりも、自分の感覚が納得しないと変えられない。

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本当は「売身(ばいしん)」が正しいと思う

逆に世間では使われているのだが、私がどうしても馴染めない言葉がある。それが「売春婦」という言葉である。私もこの言葉をしばしば使うが納得していない。世間は何とも思っていないだろうが、できれば100%使いたくない。

何が嫌なのかというと「婦」という言葉が嫌なのだ。

「婦」という言葉は『家事に従事する女』『成人に達した女子』という意味がある。しかし、それは売春する女たちに当てはまるかと言えばまったく当てはまらない。家事に従事していない女性は多いし、未成年のセックスワーカーも多い。

「婦」という言葉自体が、セックスワーカーのことを知らない学者が作った言葉のように思えるのだ。

どう考えても「婦」は、売春する女性の実情を表していない。売春の世界のことを何も知らない人にとってはどうでもいいことかもしれないが、私自身はこの世界をよく知っているので「婦」を使いたくない。

売春婦と言う言葉は世間一般では間違いではないのだが、どうしても私の感覚に合わない。だから、私は売春婦という言葉を使わずに「セックスワーカー」だとか「売春女性」という世間とは違う言葉を使っている。

同時に私は「買春(かいしゅん)」という言葉も今は絶対に使わない。「買春」と書いて「かいしゅん」と呼ばせるのが変則的で日本語的ではないように思えるし、馴染みの言葉でもないし、愛着をも感じない。

これは、どこかの売春反対派のフェミニストの弁護士が勝手に作り出した造語でもある。私自身は売春合法化を支持しているので、売春反対派の人間が作り出した言葉など使いたくないという個人的な気持ちも強い。だから、買春(かいしゅん)という言葉は個人的には嫌いだし、使って欲しくない。

本当のことを言えば「売春」という言葉も好きになれない。身体を売るのだから、「売身(ばいしん)」が正しいと思う。しかし、「売身」という言葉を「売春」と結びつけてくれる日本人は少ないと思うので私も使わない。心の奥底では、売身(ばいしん)という言葉を使いたいと思う。

そう言えば私は「ボンベイ」が「ムンバイ」になっても頑なに「ボンベイ」と言い張っていたし、「カルカッタ」が「コルカタ」に変わっても頑なに「カルカッタ」と言い張っていた。今では、あきらめて「ムンバイ」「コルカタ」を使っている。

そういう微妙な感覚で私の文章の単語選択は成り立っている。この感覚は「今」の感覚で成り立っているので、感覚が変わるといつでも違う言葉になっている可能性があるので絶対的なものではない。

『コルカタ売春地帯: ブラックアジア的小説。インド最底辺の女たちとハイエナの物語(鈴木 傾城)』。この電子書籍のタイトルは、カルカッタにすべきかコルカタにすべきか、本当に悩んだ。

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