苦しみたくなければ、食べ物に関しては思想・哲学を持ち込まない方がいい

苦しみたくなければ、食べ物に関しては思想・哲学を持ち込まない方がいい

最近、ヨヴァナ・メンドーサ・アイレスという女性が、魚を食べたということで袋叩きにされる事件があった。

魚くらい世界中どこでも普通に食べられているのだが、なぜ彼女が普通の魚を普通に食べて批判されたのかというと、彼女は「自分がヴィーガンである」と標榜していて、ヴィーガンとして人々を啓蒙する立場だったからだ。

ヴィーガンというのは、卵・牛乳・動物性食品を完全に断つ「完全菜食主義者」のことを指す。(ブラックアジア:ヴィーガン。絶対に肉・魚・乳製品を食べないというライフスタイル

彼女は、ヴィーガン流のダイエット、ヴィーガン流の料理法、ヴィーガン流の哲学をユーチューブやSNSで喧伝し、それによって収益を得ていた。

人々に「ヴィーガンは素晴らしい。私もヴィーガン。一緒にヴィーガンのライフスタイルを実践しましょう」と旗を振っていた人が、誰も見ていないところで魚を食べていた。

ヴィーガンというライフスタイルを実践していた人が「これは裏切りだ!」と感じても仕方がない。彼女はこの件でいろいろ言い訳を述べて謝罪したが、彼女の信用がガタ落ちになった。(鈴木傾城)


プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)

作家、アルファブロガー。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」、投資をテーマにしたブログ「フルインベスト」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。

豚肉と牛肉の方が私には大切だ

ところで。インドネシアはイスラム教だ。バングラデシュもイスラム教だ。私はこのどちらの国も好きで、そこで出会って忘れられない女性が何人かいる。

私の場合は、いつもゆきずりに出会って別れるという刹那的な関係に終始しているのだが、もし仮に私がインドネシアやバングラデシュの女性と一緒に生活をする覚悟を決めたらどうなるのだろう。

恐らく、私はすぐにその女性を怒らせて別れることになってしまうだろう。

イスラム教は豚肉を食べたら駄目だが、私はそんな宗教的ルールなど鼻で冷笑して豚肉を食べ続けるはずだからだ。イスラム教と豚肉のどちらが大切なのかと言われたら、間違いなく豚肉を心おきなく食べられる方が私には大切だ。

別にインドネシアやバングラデシュの女性に生姜焼きやトンカツや回鍋肉(ホイコーロ)を作ってくれとは言わないが、自分がそれを食べたいと思ったら彼女がイスラム教徒だろうが何だろうが私はそれを食べる。

インドはヒンドゥー教が広く信じられている国だ。私はインドも好きで、女性のあのエキゾチックな容姿を見つめているだけで心が高揚する。

もし仮に私がヒンドゥー教を心から信じている女性と一緒に暮らす覚悟を決めたらどうなるのだろうか。やはり私は彼女を怒らせることになるだろう。

ヒンドゥー教は牛肉を食べたら駄目だが、私はそんな宗教的ルールなどまるっきり興味がないわけで、牛肉が食べたいと思ったらヒンドゥー教徒の女性がどんなに牛肉を拒絶していても私は自分の食べたいものを食べる。

私にとってはヒンドゥー教の聖なる教えや戒律よりも、牛肉のステーキやマクドナルドのハンバーガーの方が大切だ。

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食べたいものしか食べない

では、もし私がヴィーガンを実践する女性と一緒に暮らす覚悟を決めたらどうなるのだろうか。100%うまくいかないだろう。

別にヴィーガンを実践している女性を怒らせるつもりも否定するつもりもないのだが、私自身はヴィーガンを実践しようと思う心はまったくないし、他人の信念に付き合うつもりもないということだ。

その人が自分ひとりでそれを実践するのは何も言わないが、それを自分に強制されるのであれば去る。

とは言っても、私は信念を持った肉食主義であるというわけでもない。本当のことを言えば、自分がその時に食べたいと思うものだけを食べたいのであって、別に肉や何かにこだわっているわけではない。

炭水化物が一ヶ月続いて肉がまったくなかったとしても、その時の私がそれで満足していれば肉のことなど思い出しもしないだろう。

基本的に野菜類は好きでないので大半の野菜は食べないが、もし私が野菜が食べたいと奇跡的に思うようになったら今度は野菜ばかり食べているはずだ。

要するに私は「その時の自分の気持ち」で適当に何かを食べている。それが許される環境を求めている。

ヴィーガンやイスラム教・ヒンドゥー教のような食事制限のある宗教は「適当に何かを食べる」という自由を制限される。だから、私はヴィーガンという思想も、イスラム教・ヒンドゥー教のような食事制限のある宗教も無理なのだ。

それで問題のない人であれば、別に私がとやかく言うことではないので自由にやってもらっていい。しかし、彼らの自由を認めるのであれば、逆に私自身の自由もまた認めて欲しいということだ。それが単なる偏食であっても。

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思想は「できること」を規制するシステム

私は食べ物に関しては「かくあるべき」という哲学や思想を持っているわけではない。自分の中で食べ物に関して厳格な決まりを持っているわけではない。私は、ただ単に「食べたいものしか食べない」だけである。

食べたければジャンクフードも食べるし、身体に悪かろうが何だろうが「食べたい」と思うものは何でも食べる。

私は糖質制限ダイエットはしない。炭水化物は好きに取るし、甘いものも好きに食べて好きに飲む。相手が糖質制限を私に勧めても私は断る。やりたい人はそれをやればいいと思うが、私は興味も関心も従うつもりもない。

では、のべつまくなしに炭水化物を取っているのかというと、まったく取らない時もある。その瞬間を見たら私も糖質制限をしているように見えるのかもしれないが、たまたま気分的に食べなくなっただけで、意図的にそうしているのではない。

アスリート特有の身体を作り上げる食事や食べ方やカロリー配分も興味がない。基礎知識としては大雑把な内容は知っているが、自分がそれをすることは決してない。そこに私の関心がないからだ。

「鈴木傾城の食生活はめちゃくちゃではないか」と思う人がいるはずだ。その通りだ。自分で言うのも何だが、まったくもって一貫性がない。別の言い方をすれば、私は物心がついた頃からずっと食べ物に関しては哲学も一貫性も持たない。まったくのフリーダムだ。

そして、ふと思うのである。

ヴィーガンは思想である。イスラムやヒンドゥー等の宗教もまた独自思想の集大成である。糖質制限ダイエットやアスリート特有のダイエットもまた一種の思想である。食事に思想が生まれると、思想が方針になるので、当然のことだが「食べていいもの、いけないもの」が生まれる。

思想は「できること」を規制するシステムだ。食事に思想が入るというのは、つまり「食べてはいけないものが入る=制限が入る」ということだったのだ。

さらに思う。思想とはすべてにおいて行動を一貫させるというメリットがあるのだが、それは別の言い方をすると「自分を縛るもの」にもなり得るというデメリットもまた付いて回るということでもある。

ヴィーガニズムは「完全菜食主義」という思想だ。好きでこれをやっている人はいいが、思想として取り入れた人は「極度の我慢」を強いられるのでキツい日常になっていく。ヨヴァナ・メンドーサ・アイレスもそうだったのだろう。

彼らを見ていて、私自身は食事に思想や哲学を持たないでおこうと秘かに思っている自分がある。

いろいろ食べたい人、食べることが好きな人、逆に偏食な人ほど、あえて食事に思想・哲学を持ち込まない方がいいのかもしれない。思想・哲学ゆえに制限が生まれ、それに苦しむことになる。(written by 鈴木傾城)

ヨヴァナ・メンドーサ・アイレス。彼女は「自分がヴィーガンである」と標榜していて、ヴィーガンとして人々を啓蒙する立場だったが、実は裏で魚を食べていたのがバレて炎上した。

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