資産数兆円のインド富裕層の結婚と、貧困にあえぐ売春地帯の娘のこと

資産数兆円のインド富裕層の結婚と、貧困にあえぐ売春地帯の娘のこと

2018年12月12日。インドのあるカップルが結婚した。花婿の方はアナンド・ピラマル。花嫁の方はイシャ・アンバニ。「ピラマル」だとか「アンバニ」だとか言われても、日本人はまるでピンと来ない。

しかし、このふたりはインド有数、いやアジア有数の「超」富裕層の一族の子息子女である。

イシャ・アンバニの父親は、インド最大のコングロマリット「リライアンス・インダストリーズ」の創始者ムケシュ・アンバニ氏であり、その資産は4兆8780億円にもなる。一方のアナンド・ピラマルの父親は、インド最大の製薬会社ピラマル・グループの会長アジャイ・ピラマル氏であり、その資産額は1兆1,350億円である。

このふたりの結婚式は総額100億円以上かかっており、ボリウッドスターはもちろんのこと、前座にはアメリカの歌手ビヨンセが呼ばれ、ゲストにはヒラリー・クリントンが参加していた。

結婚式に100億円なのだからそのスケールは途方もないのだが、一族の資産を合わせて6兆円近い額になるのであれば、100億円くらい大したことはない。

インドは人口約13億人を抱える国で、その大半が貧困生活をしている。しかし、この超富裕層のスケールは凄まじい。その息子や娘でいられたアナンド・ピラマルやイシャ・アンバニは「運が良かった」と言えるだろう。

イシャ・アンバニの100億円結婚式

絶対貧困に苦しむ女性たち

私が知っているインド人は、こうした豪華絢爛に暮らすセレブのインド人ではない。まったく逆だ。私がインドで知り合ったのは、スラムに住み、地を這い、絶対貧困に苦しむ女性たちである。

私自身もずっとインドのスラムから出なかった。

言ってみれば、私が知り合ってきたインド人の多くは、それほど「運」に恵まれていなかった。「恵まれていない」という言い方は、正確ではないのかもしれない。「運が悪かった」というべきか……。

スラムには、薄汚れた服しかない人々もいる。物乞いをして生計を立てている人たちもいる。病気の子供たちもいる。

日本では、こうした極貧層は行政が保護するのかもしれないが、途上国であるインドでは放置されたままだ。そして、誰も彼らの存在を気にもしない。

「運」は平等ではない。人間には「運・不運」が生まれた時から付いて回るものだというのは、こうした世界を歩けばすぐに分かる。誰でもそんなことは最初から分かっているのだが、インドにいるとその事実の「重さ」は心から離れなくなる。

生まれた国や時代が少し違っただけで、親の境遇や生活が少し違っただけで、子供はその運命から一生逃れられない。

どん底に生まれ、日々生きるのが精一杯で、教育もなく、野良犬のように育てられた貧しい子供が、努力も運もなく社会的成功をする可能性はゼロに近い。

一方で、金持ちの家庭で生まれ、教育も受け、愛情もたっぷりと注がれた子供たちは、すくすくと育って社会的にも成功する可能性は高い。事実、イシャ・アンバニはイェール大学を卒業し、スタンフォード大学でMBAを取得している。

個人の努力を超えたところで社会的不平等の真っ只中に落ちてしまうと、もうどうしようもない。これを、運・不運と言わずして、何と言えばいいのだろうか。

個人の努力を超えたところで社会的不平等の真っ只中に落ちてしまうと、もうどうしようもない。これを、運・不運と言わずして、何と言えばいいのだろうか。

一緒にいたゴア出身の女性

インドの商業都市ムンバイには「カマティプラ」という売春地帯がある。ここま今も売春地帯である。ただ、かつてに比べると規模は縮小しつつあり、広大な売春地帯は削り取られるように消えていこうとしている。

2003年頃、私はこのムンバイのカマティプラにいた。

その時に一緒にいたゴア出身の女性は、1日に2度、ほんの少しの食事を取るだけで、あとは何も食べない女性だった。

客が取れなければ、1日1食の時もあると彼女は私に言った。売春の仕事をしても、その金はオーナーに収奪されるから自分の手元には残らない。

1日3度の食事が取れて間食までできる先進国の人間から見ると、彼女は明らかにカロリーが足りていない。しかし、金がないので自由に食べることができないでいる。そのせいで、まだ売春ビジネスの新米だった彼女はとても痩せていた。

ところが、彼女はそれでも恵まれている。

ムンバイの路上には、1日1食も食べられない人々が街に溢れていた。彼女は自分のサリーも何着か持っていたが、街には1着しかサリーを持たない女性もたくさんいた。安いサリーは3ドルほどで買えるが、それを買う余裕すらない。

インドの貧困は根深く、どこまでも救いがない。社会的・文化的な差別が、何重にも絶対貧困者を取り巻いている。

インド人は自分よりも下位カーストの人間を嫌い、彼らに対しては実に傲慢に振る舞う。下位カーストの人間に対しては、見事なまでに思いやりの一片もない。いつも、怒鳴り散らし、殴りつけている。

売春に追い込まれる女性は、多くが下位カースト、またはカーストにも入れてもらえなかった最底辺のダリット出身の女性が多い。

だから、どこの売春地帯でも、インドの売春地帯は怒声と罵倒にまみれている。女性たちは年中誰かとケンカしており、殴られたり、蹴られたりしている。

生まれた場所と時代が悪ければ、もしかしたら私たちがそうだったかもしれない。彼女たちは、本当に運が悪かったのだと私はしみじみと思わずにいられなかった。

次から次へと不幸が積み重なっていく

普通の人々が簡単に手に入れられるものが、貧困者にはとてつもなく遠い存在だ。何もかもが不足している。だから、次から次へと不幸が積み重なっていく。

たとえば、極限的な貧困状況に置かれている人々は、自分の教育や子供の教育のことなど考えるゆとりなどあるはずもない。だから、学校の存在は無視される。

しかし、読み書きや計算ができなければ、地位の向上のチャンスすらつかむことはできない。そうすると、良い仕事に就くことができない。低賃金の仕事ばかりで生活が困窮する。

生活が困窮すると、心身が荒み、アルコールやギャンブルに溺れやすくなる。そうすると、ますますそれが生活困窮を生む。そんな生活が長引くと、身体を壊しやすくなる。実際に身体を壊すと、また生活困窮の原因になる。

結婚して子供が生まれると、それも生活を追い込む原因となる。子供には教育を受けさせられない。病気になってもケガしても治療などできない。そうなると、子供もまた貧困の人生を歩んでいくことになる。

悪循環が「これでもか、これでもか」と貧困者に付いて回る。ひとつ乗り切る前に、また次の障壁が立ちふさがり、不幸が積み重なる。

考えればすぐに分かるが、字が読み書きできない人間よりも、字が読み書きできる人間の方が職業の選択が多いのは、現代社会では当然のことだ。

基礎教育は受けて当然のものなのだが、それを受けることができなかったというのは、社会で生きる上で最初から重いハンディキャップを背負っていることになる。いくら頭脳明晰であっても、それは現実の前に叩き潰される。

ブラックアジア:インド・バングラ編。普通の人々が簡単に手に入れられるものが、貧困者にはとてつもなく遠い存在だ。何もかもが不足している。だから、次から次へと不幸が積み重なっていく。

個人の能力では克服できない「運」

先進国に生まれるのか途上国に生まれるのか、富裕層の家庭に生まれるか貧困層の家庭に生まれるのか、そんなものは自分で決められるものではない。ゆえに、生まれながらに置かれた環境は「運」となる。

「運」の良し悪しは、自分の人生に最初からついて回る。一段上に這い上がることができる人もいるが、実際にはそれが容易ではない。「努力すれば報われる」というのは、社会がきちんとそのようにお膳立てしてくれた上で成り立つものである。

インドの貧困層を見ていれば、それが嫌でも分かる。社会全体が弱者に無関心で、彼らを見捨てていると、「努力すれば報われる」など単なる理想論でしかないのがすぐに理解できる。

インドでは、生まれが悪ければ、差別と貧困地獄の中で身悶えして苦しみ、自分の「運の悪さ」に愕然とするしかない。誰も助けてくれないから、青い肌をした神でも祈るしかなくなってしまうのである。

そういった目で見れば、私たちが日本に生まれて文句を言いながらも滞りなく食べていけているのは、それなりに幸せであるのは間違いない。

インドの貧困層に生まれていたら、果たして自分はどのような人生を送っていたのかと考えることもあった。それは、日本で生まれ育つよりも相当な苦難であったのは間違いない。

インドだけではない。たとえば、私たちがアフガニスタンに生まれていたら、まったく今とは別の人生を歩んでいたはずだ。どんなに向上心があって頭が良くても、アフガニスタンでは男は戦士や農民、女は無教育であることが一般的な人生である。

ソマリアで生まれていたら、男は海賊か失業者、女は男の財産として人生を全うする確率が高い。シリアで生まれていたら、今ごろ爆撃に怯え、イスラム武装組織の凶悪な暴力に震え上がっていただろう。

個人の能力では克服できない「運」がある。だから、必死で向上心を抱いて努力しても、不幸になる人も膨大にいる。逆に、何ら努力もしていないのに、たまたま金持ちの家庭に生まれることもある。

ひとりの人間の努力や能力をはるかに超えた「運・不運」は間違いなく存在する。人間には誰でも超えられない「運・不運」が付いて回る。運が悪くても、その中でもがくしかない。それが生きるという意味である。

インドの売春地帯カマティプラにいた女性のことを思い出す。今も彼女は苦しみながら生きているはずだ。もし、生き残っていれば……。

インドの売春地帯カマティプラの女性。ひとりの人間の努力や能力をはるかに超えた「運・不運」は間違いなく存在する。人間には誰でも超えられない「運・不運」が付いて回る。運が悪くても、その中でもがくしかない。それが生きるという意味である。

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