
世の中には、誰でも要領良く生きていけるわけではない。家賃が払えなくなって、強制執行を受ける人間もいる。強制執行は約3万8000件もあり、一日100件のペースで起きているというデータもある。住居を失うというのは社会から見捨てられるということでもある。その絶望と自暴自棄は限りなく深い。(鈴木傾城)

プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)
作家、アルファブロガー。著書は『ボトム・オブ・ジャパン』など多数。経済分野を取りあげたブログ「フルインベスト」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」を運営、2019、2020、2022年、マネーボイス賞1位。連絡先 : bllackz@gmail.com
どうやって生きていいのか想像できない
2026年1月15日午前、東京都杉並区のアパートで家賃滞納に伴う住宅明け渡しの強制執行のため訪れた東京地裁の執行官ら2人が、住人の40歳の男に包丁で刺され、保証会社社員が死亡し、執行官が負傷するという事件があった。
当日、部屋を訪れたのは4人だった。家賃の滞納などを立て替える保証会社の社員、裁判所の執行官、そして補助者にあたる関係者が立ち会っていたとされる。相手は家賃を滞納し、契約解除に至り、立ち退きが確定していた人物だった。
捜査関係者の説明では、4人が玄関先で対応した際、男は段ボール1個を持って出てきた。ところが、その段ボールから煙が上がっていた。避難の直後、部屋から破裂音がした。
そして、男は包丁で続けざまに2人を刺したとされる。亡くなったのは保証会社の社員で、61歳の男性だった。執行官は重傷である。
犯行後、男は北方向へ逃走し、通報から約30分後、約600メートル離れた路上で確保された。目撃情報では、警察官が5、6人から最終的に10人ほど集まり、容疑者は抵抗なく確保されたように見えたという。
男は刺したことを認め、「自分の人生がどうなっても良いと思って2人を刺した」「自宅を追い出されると金もないし、どうやって生きていいのか想像できず、自暴自棄になった」と供述しているという。
さらに「火を付けた」「死のうと思ったが煙に耐えられず外に出た」という趣旨の話も出ている。
強制執行は、裁判所が明け渡しを命じる判決を出し、それでも任意で退去しない場合に、執行官が現場で実行する。立ち退き期限が15日という説明もある。つまり当日は、期限の最終局面だった可能性が高い。
強制執行は、珍しいものではない。2024年の不動産引き渡しの強制執行は約3万8000件とされ、単純計算で1日100件以上が実施されている。
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誰でも要領良く生きていけるわけではない
この40歳の男は家賃を継続的に滞納していたとされ、報道では2025年7月までに40万円以上、別の記録では60万円の滞納があったとされている。管理側は賃貸契約を解除し、2025年8月に退去を求めて東京地裁に提訴した。
その後、退去を命じる判決が確定し、2025年12月に強制執行の通告を受け、立ち退き期限は2026年1月15日だった。
捜査関係者によれば、男は「コロナ禍以降は働いていない」「貯金を切り崩し、生活保護やスキマバイトで生活していた」と供述しているという。生活保護を受けている時期もあったが、おそらく仕事をするように強く指導されたのだろう。それで日雇いの仕事をすると生活保護を打ち切られていた。
なぜ、男がコロナ禍以降は働いていなかったのかはわからない。仕事が見つからなかったのか、メンタルの問題を抱えて仕事ができない状況になってしまったのか、それとも必死で生きていたのだが不運が重なっていたのか。
世の中には、誰でも要領良く生きていけるわけではない。
「自宅を追い出されると金もないし、どうやって生きて良いのか想像できず、自暴自棄になった」と男は言っているのだが、そういう男にとって家賃を払っていない住居は最後の砦だったのだろう。
金額からすると、この男は半年から9か月くらい家賃をずっと払っていなかったことになる。この間、男はおそらく「いつか追い出される」という気持ちの中で、ずっと不安と恐怖と憂鬱な気持ちで暮らしていたはずなのだ。
それはいつだかわからないが、かならずやってくる。今日は大丈夫だったとしても、明日はもうダメかもしれない。自滅の日が刻々と自分に迫ってくる。
人はカネがないだけでは壊れない。カネがない状態が長く続いても、まだ予定が立つ間は耐えられる。明日どこで寝るか、来週の収入がどうなるか、食べる手段があるか。そうした見通しが残っている限り、恐怖は「不安」の範囲に収まる。
それが消えたとき、人は一気に絶望の臨界点に転がり落ちていく。強制執行の通知、期限の到来、当日の訪問。それはまさに、追いつめられた側にとっては「ここから先はない」という宣告であり、臨界点だったのだ。
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この人たちは明日はどうするのだろうか
私自身は家賃を滞納したとか、支払いができなかったという経験は一度もないのだが、コロナ禍のときに貧困のシングルマザーを取材したときや、ギャンブル依存の取材のときにすべてをパチンコに費やしてしまう人たちを取材して、私自身がノイローゼになりそうな精神状態になったことがある。
「この人たちは明日はどうするのだろうか」と思ったとき、他人のことながら胃がキリキリと傷んだ。
かつて私はタイに沈没していたとき、その原資は株式市場で持っているカネをすべて投じるような無謀なバクチでカネを作っていたのだが、タイに居ながらもずっと「株式市場が暴落していたら自分は終わりだ」「自分の株が暴落したら終わりだ」という不安に苛まれていた。
タイの歓楽街で私はカネを失う恐怖と不安に身を焦がせながら沈没していた。幸か不幸か、時代はちょうどバブルだったので私は無謀なバクチでカネを増やすことができたのだが、常に高値を買い上げるバクチ状態だったので、気が落ち着く余裕はほとんどなかったと言っても過言ではない。
カネがないというよりも、カネがなくなるという不安が非常に強くて、それ自体が私にはトラウマのように心に染みついてしまった。
さらに、バブルが崩壊したあとは自分も資産をえぐり取られ、さらにもっとも近しい人が自己破産寸前の壊滅的な状況にまで追いつめられていったのを間近に見ているので、それもまたトラウマになった。
以後、私は投資をするにしてもかなり防衛的な投資に終始して、資産を極大化するよりもリスクを最小化する投資に傾いたのだが、それはいつでも破滅する可能性を考えているからでもある。
そういうのもあって、「明日はどうなるのかわからない」という不安と恐怖は、もしかしたら彼らと共通のものがあるのかもしれない。恐怖はよく理解できる。私も今の資産をすべて失ったら発狂して誰かを刺して逮捕されるのかもしれない。
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自暴自棄の中に「怒り」が含まれていく
「強制的に追い出されたくなければ、きちんと働いて家賃を払え」というのは正当な意見でもある。反論の余地はない。
だから社会でうまく生きられず、経済的にもうまくいかない人は冷たく突き放されて理解されることもない。この東京都杉並区の事件の男も、年齢も上がっていき、もはや先もなかった状態だったように見える。
じりじりと状況が悪化していくのを止めることもできず、自分の破滅がすぐそこまで迫ってきている状況は精神状態を悪化させる。
失業しても、貯金があれば何とか時間稼ぎができる。その貯金が尽きても、頼れる身内がいれば何とかなる。身内が無理なら、制度に頼れば食いつなげる。だが、そのどれもが途切れたとき、あとに残るのは絶望しかない。
そうなったとき、人は視野狭窄にはまる。考えることもできなくなる。考える必要がないからではない。考えると苦しいからだ。将来を考えると絶望が募るだけなので、考えないことが心の防御になる。
だが、考えないでいても家賃は払わなければならない。スキマバイト、単発の配達、日銭をするにしても、それは仕事というより延命だ。生活を築くのではなく、今日を消費して翌日に逃げるだけになる。
そうやって追いつめられていくと、自暴自棄の中に「怒り」が含まれていく。
自暴自棄の最初は自己攻撃であることが多い。「なぜこうなった」「なぜ踏ん張れなかった」「なぜ戻れない」と自分を責める。だが、次第にこの自己攻撃は他責に向かう。人は自分を責め続けられないからだ。
制度、管理会社、保証会社、裁判所、社会そのもの。自分を追いつめるすべてに、激しい憤りと憎しみを持つ。強制執行で自分を守ってくれていた唯一の「殻」である住居を取り上げられるとき、自分の目の前にいる執行官たちは敵となっている。
強制執行という場は、追いつめられた者にとって「恥の公開処刑」に見えることがある。第三者が部屋に入り、荷物が運び出され、生活の痕跡が外部にさらされる。人は貧困よりも羞恥に耐えられない場合がある。
そこに他者が複数人で立ち会う。法律上は安全確保のための合理性だが、本人の認知では「見物人がきた」「暴かれる」という意味になる。羞恥が恐怖と結びつくと、思考は完全に乱れる。
だからこの男は、相手を包丁で突き刺したのだ。それは彼にとっては世間には理解されない「自己防衛」でもあったに違いない。この強制執行は一日に100件近くあるというのは、重い現実でもある。






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