
飛行機事故が起こると、ほぼ全員が死亡する確率が高い。しかし、たった1名だけ生き残るケースもある。生き残るために、彼らが何かをしたわけでもない。また、座席の良し悪しがあったわけではない。すべては偶然だった。私たちは誰でも偶然、生き残るかもしれないし死ぬかもしれない運命にある。(鈴木傾城)
プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)
作家、アルファブロガー。著書は『ボトム・オブ・ジャパン』など多数。政治・経済分野を取りあげたブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」を運営、2019、2020、2022年、マネーボイス賞1位。 連絡先 : bllackz@gmail.com
数百名の中で、たった一名だけが生き残る事故
2025年6月12日、インドで発生したアーメダバード発ロンドン行きのエア・インディア機墜落事故では、乗員乗客241名が命を落とす中で、ただ一名の生存者が確認されている。(ブラックアジア:【速報】エア・インディア171便墜落。)
ラメーシュ・ヴィシュワスクマール氏は、緊急脱出口隣の座席が機体ごと切り離される形で落下し、開いた隙間から自力で脱出した。「目を覚ましたら、自分の前に遺体が散乱していた。自分も死ぬと思った」と氏は語っている。
「機内の緑と白の照明が点滅し、エンジンの推力が上がるのを感じた直後、激しい衝撃があった」「ドアが壊れて開いた隙間を見つけた。どうやって生き延びたのか、自分でもわからないが、とにかく走った」
彼は衝撃で外れた扉をかいくぐり、混濁した意識下でも瞬時にシートベルトを外して炎や破片をかき分け、数十メートル歩いて近くの救急車にたどり着いた。全身にケガを負ったが、脳損傷はなく命に別状はないと診断された。
「なぜ自分だけが助かったのか、いまだに答えはわからない。兄弟の安否がわからず、今も心が張り裂ける思いだ」
このような単独生存者の例は、過去にも記録されている。1987年、デトロイト郊外で発生したノースウエスト航空255便の墜落事故では、当時7歳だった女の子が156名の犠牲者を出した中で唯一助かっている。
この事故は、MD-80型機の左翼が灯柱に衝突し、機体は高速で滑走路を離脱したことによって起きている。飛行機は約0.8kmにわたる破片の軌跡を残しつつ大破した。この現場で、彼女だけが奇跡的に生き残り、救助隊に発見された。

偶然、生き残ることも死ぬこともある
さらに、1985年のギャラクシー・エアライン便墜落事故でも、当時17歳の男子がひとりだけ生き残った。着陸に失敗した同機は滑走路を逸脱し、炎上しながら機体が分断した。彼自身も「どうして自分だけが残されたのか、いまだに答えはわからない」と語っている。
その他にも、2009年のイエメニア・エアウェイズ墜落事故では当時12歳の女の子が、乗員乗客153名のうちの唯一の生存者となっている。
この飛行機は海面に激突してバラバラになってしまったのだが、彼女は墜落後に浮遊する破片にしがみつき、約13時間にわたり海上を漂流した末、地元漁船員によって救助されている。
これらの事例に共通するのは、衝撃の受け方や機体の破壊状況、座席位置など多くの要素が「本当にわずかな差」で生死を分けたという点である。生き残るために、彼らが何かをしたわけでもない。また、座席の良し悪しがあったわけではない。
すべてが偶然の為せる技だった。
これを見てもわかるが、人の生死は、理屈では説明しきれない偶然の重なりによって左右される。日常生活の中でも、心臓発作や交通事故、自然災害といった突発的な要因によって命を奪われることがある。
予測不可能な状況でいきなり命が断たれる悲劇は、誰の身にも起こり得る現実である。一方で、大規模な事故や極限状態にあっても、わずかな座席位置の違いや衝撃角度、身体の受け方といった偶然の要素で生き残ることもある。
すべては、偶然に帰結する。日本でも、たまたまそこに訪れて自然災害に巻き込まれて亡くなる人もいれば、注意深い人なのに交通事故で亡くなる人もいれば、健康に留意しているのに病気で亡くなる人もいる。
一方で、健康に無頓着なのに90歳以上も生きる人もいるし、無鉄砲なのにケガひとつしない人もいる。どれだけ備えを重ねても、絶対に助かる保証はないし、逆にどれだけリスクがある性格やライフスタイルでも人生を生き残ることもある。

「偶然が左右している」と考えるのは苦痛
「自分が生まれてきたのは意味がある」とか「自分が生きているのは何か使命がある」とか思っている人は、生きるも死ぬも「偶然が左右している」と考えるのは苦痛だと思う。そのように考える人は、自らの存在や行動に必然性を求めるからだ。
すべてが偶然で左右されると考えることは、自らの価値観や努力の正当性を根底から否定される感覚をもたらす。
目標達成のために粘り強く行動しても、運命がランダムに決まるならば、努力は無意味なものと映るだろう。さらに、偶然性は未来を予測する安心感を奪い、精神的な安定を損なう要因となる。
人生に意味を見いだすことで育まれる責任感や使命感が揺らぐと、「何のために生きるのか」という根本的な問いが浮上してしまう。それは、自我と世界観の基盤が崩れる恐怖を伴うことなのだ。
したがって、彼らにとって「偶然」を受容することは、自己のアイデンティティと世界理解を根こそぎ揺さぶる行為であり、強い苦痛を伴うものになる。
私自身は、間違えても「自分が生きているのは何か使命がある」みたいなことを思うことはない。人間は使命がなくても生きる必然がなくても生きているし、生死も含め、いろんな物事は案外「偶然が左右していることが多い」と逆に思っている。
アンダーグラウンドを長く見てきたせいかもしれない。
生きる価値もないようなクズみたいな男はアンダーグラウンドには大勢いるし、むしろ世の中のためには死んでしまったほうがいいのではないかと思うような犯罪気質なサイコパスもいる。そういう人間も、なぜかのうのうと生きているのが現実だ。
一方で、純真で心が美しいのに、貧困や残酷な運命で社会の最底辺で苦しんでいるような女性もいる。環境が良ければ、幸せに生きられていた女性が、身を切るような不幸な世界に堕ちていて、そのまま死んでしまうこともある。
それは必然だったのか。運命だったのか。私は「偶然」がすべてを左右していたのだと思っている。

結局は、「コレ」が最良の選択だった?
私たちが失敗国家の貧困層として生まれていたら、まったく違う人生を送っていただろう。
仮に私たちがアフガニスタンの極貧で生まれていたり、パキスタンの山岳地帯で生まれていたり、インドの地方でカーストにも入れないような身分の子供として生まれてきたら、かなりの苦難に見舞われていたはずだ。
私たちが日本人として生まれてきたのも偶然だ。逆に私たちが今の時代に生まれてきたのも偶然だ。今が1945年だったら、日本で生まれたとしても、生きるか死ぬかの動乱の人生に巻き込まれていたはずなのだ。
そのように考えると、人の人生はだいたいが「偶然」で出来上がっていると考えるほうが、しっくり来ないだろうか?
逆にいえば、自分の予期せぬときに自分の予期せぬ形で「偶然」死んでしまうこともありえるはずだ。明日、事故で死ぬかもしれないし、心臓麻痺で突然死するかもしれない。誰も「自分は明日死ぬ」と思って生きていないが、世界は「偶然」が作用しているのだから、明日死ぬ確率もあるのだ。
2025年6月12日、インドで発生した飛行機事故にしても、乗員乗客241名は「今日、自分は死ぬ」などまったく思わないで暮らしていたはずだ。助かった1名は逆に「飛行機事故で自分だけが助かる」など思わなかったはずだ。
「偶然」死ぬこともあれば「偶然」生き残ることもある。それが人生だ。
だとしたら、自分が生きているうちにやりたいことがあるのならば、それを優先したほうが絶対にいいという発想も浮かんでくるだろう。そうなのだ。結局は「やりたいことは、さっさとやっておく」のが最良の選択だったのだ。
明日何が起こるかは誰にもわからないのだから、なおさらそうだ。

コメントを書く