そろそろ日本人も尊厳死・安楽死を認めるように大きく声を上げてもいい頃だ

そろそろ日本人も尊厳死・安楽死を認めるように大きく声を上げてもいい頃だ

(ダークネスの方で安楽死を取り上げました。『寝たきりは「静かで安らかな状態ではない」ということを、まずは認識すべき』。こちらでも改めてこの記事をトップにします)

ちなみに私は安楽死・尊厳死も賛成しています。なぜ「高齢になり、寝たきりになり、意識も薄れ、永遠に介護されないと生きていけないのなら死ぬ」という考え方がいけないのか。「尊厳を持って死にたい」という人もいる。日本はそろそろ「死の選択肢」を考えるべき時が来ていると思います。(鈴木傾城)


プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)

作家、アルファブロガー。まぐまぐ大賞2019、2020年2連覇で『マネーボイス賞』1位。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」、投資をテーマにしたブログ「フルインベスト」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。(連絡先:bllackz@gmail.com)

「十分に生きたのだから、もう永遠の休みを得たい」

認知症の末期になり、自分が誰だか分からない状態どころか、人間としての尊厳すらも失われた状況で生きるというのは正しいのだろうか。老いて寝たきりとなり、胃瘻《いろう》をした状態で生かされ続けるというのは正しいのだろうか。

それでも生きたいという人はいると思う。そういう人は、医療によってできる限り生かしてもらうというのは選択肢として与えられている。しかし、「そんなになっても生きたくない」「自分が誰だか分からないような状態になったら死にたい」という人の選択肢は与えられているのだろうか。

「自分が人間としての尊厳が失われるような状態になって家族に経済的負担をかけるのであれば安楽死したい」という人もいる。

高齢になり、病気になり、介護が必要になり、もはや自分ひとりで生きていくことができそうにないと悟った時、「十分に生きたのだから、もう永遠の休みを得たい」と考える人もいるはずだ。

しかし、そういう高齢者も現在は「生かされる」のが日本の現状である。

別にそれは悪いわけではない。老いても病気になっても全面的な介助が必要な状態になって、きちんとケアができる状態になっている日本の現状は素晴らしいと思うし、それは誇るべきことである。

途上国は逆に「もっと生きたい」と思っても生きることができない人が大勢いるし、高齢者どころか若者でさえも貧困にある人は大した病気でなくても死に直結することがある。日本のように恵まれていないのである。

だからこそ、介護なしでは生活できない状態になっても生きていくことができる日本という国の素晴らしさは素直に感謝すべきである。

しかし、その一方で「十分に生きたのだから、もう永遠の休みを得たい」という人の声は無視されるという現状もある。

ブラックアジアでは有料会員を募集しています。よりディープな世界へお越し下さい。

70代も後半に入ってから「死」を意識して生きる

日本の介護には要介護1から要介護5までの五段階があって、要介護1は「ひとりで何とか生きていける状態だが判断力が低下してしまっている人」で、だんだん体力や思考が落ちていくと要介護2、要介護3と進んでいく。

最終的に介護なしでは生きていけず意思の疎通もできなくなった状態が要介護5となる。基本的に高齢化すると誰もが要介護1から要介護5を通って死に至る。生老病死の運命から逃れられる人はどこにもない。

ただ、自分が何歳で要介護になるのかは分からない。これには個体差もあるし、病気や事故の有無も関係してくるし、さらに言えば運の良し悪しも関係する。特定疾患のある人は50代でも要介護になる。しかし、非常に壮健な人は80代でも普通に暮らしていたりする。

医学は今後も発展していくのであれば、健康寿命は80歳くらいまで延びていき、寿命も100歳超えが当たり前になるかもしれない。

織田信長は「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」と詠ったが、かつては50代まで生きたら「よく生きた」と思われるような寿命だったわけで、それから見ると寿命は2倍になろうとしているとも言える。

しかしながら一般的な話をすれば、健康寿命はだいたい74歳あたりから失われるようになっていき、80代を過ぎたあたりから支援や介護が必要な世界に入っていく。そのため、多くの人は70代も後半に入ってから「死」を意識して生きるようになる。

「どう生きるか」ではなく「どう死ぬか」を考える方が、比重が高まるということである。自ら「死ぬ」と決意する人はほとんどいないが、苦痛や恐怖の少ない死に方をしたいというのは考えるようだ。

しかし、日本の場合は「自分が誰だか分からないような状態になったら安楽死して下さい」と言って医師が「分かりました」という話にならない。安楽死は違法だ。下手したら、植物人間となった状態で延々と生かされ続けることになる。

インターネットの闇で熱狂的に読み継がれてきたカンボジア売春地帯の闇、『ブラックアジア カンボジア編』はこちらから

日本は今こそ豊富な「死の選択肢」があるべきだ

戦後の日本人は生きることの選択肢は豊富に与えられているのだが、死ぬことの選択肢は与えられていない。「死ぬのはいけない」「安楽死はいけない」「どんな状態になっても生きなければいけない」という空気が強い。

しかし、それは正しいのだろうかと私は常々思っている。

なぜ「高齢になり、寝たきりになり、意識も薄れ、永遠に介護されないと生きていけないのなら死ぬ」という考え方がいけないのだろうか。なぜ「治る見込みがない病気や、苦痛にさいなまれるだけの病気や、老いて胃瘻でいきるしかないような高齢者」が安楽死を望んだらいけないのだろうか。

「尊厳を持って死にたい」という人もいる。

自分で最期を決めることのできる「死の選択肢」がないと、本人も家族も不幸になるばかりである。だから、超高齢化社会となり今後は多死社会に入る日本は今こそ豊富な「死の選択肢」があるべきだと思っている。

尊厳死・安楽死は絶対に必要だ。

少なくとも「自分が要介護5になったら安楽死してくれ」という遺書があったら、それを実行するシステムが必要ではないか。

こういう話をすると「お前は尊い命を軽く見ている。人の命は地球より重い」と激しく怒る人もいるが、私は逆にそういう人には「お前は人の尊厳すらも奪う虐待者だ」と言いたい。

20代や30代が「何となく死にたい」というのと、高齢者が老いて要支援から要介護になって最後は寝たきりになって「尊厳を持って死にたい」というのは、まったく状況が違う。

「自分が要介護5になったら安楽死してくれ」と思う人が、その選択肢を法的に持つのは権利であると私は強く思っている。

1999年のカンボジアの売春地帯では何があったのか。実話を元に組み立てた小説、電子書籍『スワイパー1999』はこちらから

誰も尊厳死や安楽死を合法化しようと声を上げない

そのように考えているくらいだから、私自身も自分が要介護の状態が進んでいくのであれば、「介護なしでは生活できない、意思の疎通も困難」という状況になる前に自分で自分を終わりにしたいと思っている。

私自身は「健康寿命が尽きて介護されるような状態になったら死ぬ」と決めていて、まわりにもそれを公言している。

私自身は20歳で社会をドロップアウトしてから今までずっと野良犬みたいに地をうろつくような生き方をしてきたわけで、ひとりで生きてひとりで死にたいという気持ちが非常に強い。

飼い犬は手厚く看病してもらって生かされるかもしれない。一方の野良犬は、健康寿命を失ったら命の終わりだ。

私は野良犬みたいな生き方をしてきたのだから、最後も野良犬みたいに人知れず死にたいし、誰かの世話になるなんてまっぴらごめんだ。他人にそれを求めないが、私は自分にはそうしたいと思っている。

自分の命なので、自分の計画通りに生きて死にたいのである。ただ、日本では尊厳死も安楽死も認められていないので、いくら自分が「要介護5になったら安楽死してくれ」と言っても誰もやってくれない。

まして意識が残ってしっかりしている人間が「介護されるような状態になったら死ぬと決めていたのでやってくれ」と言っても医師は100%拒絶するだろう。

しかし、死にたければ自分でやればいいのであって自分の死も自分で決める。どのように死ぬかは決めていないが、人間は死のうと思えばいくらでも方法はあるので困ることはないだろう。

日本人は「死の美学、滅びの美学」を理解しているはずだ。それなのに、尊厳死や安楽死を合法化しようという声が大きくならないことに疑問を感じている。今の日本人は、それほど死にたくないのだろうか。

いや、「自分の最期は自分で決めたい」と思っている人は多いはずだ。そろそろ日本人も尊厳死・安楽死を認めるように大きく声を上げてもいい頃だと思う。

「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義(シェリー・ケーガン)

ブラックアジア会員登録はこちら

CTA-IMAGE ブラックアジアでは有料会員を募集しています。表記事を読んで関心を持たれた方は、よりディープな世界へお越し下さい。膨大な過去記事、新着記事がすべて読めます。売春、暴力、殺人、狂気。決して表に出てこない社会の強烈なアンダーグラウンドがあります。

ライフスタイルカテゴリの最新記事