売春地帯の奥に、ひとりの女が立っていた。クリーム色のパンジャビー・ドレスを着てグレーの模様の入った布を肩にかけ、人を避けるようにして立つ彼女の姿は、妙に薄気味悪い雰囲気を漂わせていた。
歳は20歳を過ぎたくらいだろうか。異様に痩せていて、私を見つめる目は無関心に近かった。
ただ黙って立って、売春地帯を行き来する男たちを見つめているのだが、心はどこか他にある、いや心というものは、すでになくなってしまったかもしれない……そんな風に感じさせる女性だった。
誰も彼女に話しかけないし、彼女も誰とも話そうともしなかった。精神的に壊れてしまった人だと思った。
だから、この売春地帯を訪れた3度目か4度目のある日、彼女が「ハロー」と声をかけてきたときはひどく驚いた。通りかかる人を「こんにちは」と呼びとめられるほど彼女の精神が普通だったとは思えなかったからだ。
しかもそれが英語だったということは、彼女が私を外国人だと認識するだけの思考能力もあるということだ。
彼女が他の女たちと違うように見えたのは、やはり全身から漂わせる厭世的な雰囲気もあったのだが、インド圏の女性にしては珍しく短めの髪をして、前側を真っ赤に染めていたからかもしれない。
白粉の内側から汗が吹き出て、目の下の黒い縁取りは滲んでいた。目の下の黒い縁取りは、インド圏以外の国の人間はめったに行わない化粧方法だ。もし行うとすれば、自分に悪魔的な雰囲気を与えたいようなときだろう。
しかし、インド圏の売春地帯では、このような目の装飾が珍しくない。彼女はついでに唇もほとんど黒に近い赤を塗っていたので、そう言った意味でも近寄りがたいものがあった。
しかし、外見が他人と違うことくらいは、私にとって特に大した意味はない。彼女に距離感を感じたのは……
(インターネットの闇で熱狂的に読み継がれてきた売春地帯の闇、電子書籍『ブラックアジア インド・バングラデシュ編』にて、全文をお読み下さい)
このあと、バングラデシュでアシッド・アタックされた人たちを何人も見ることになるのですが、はじめて被害に遭った女性を間近に見たのは、このラヒラです。
ダークネスやこのブラックアジアで、たくさんのアシッド・アタックの記事を書いてきましたが、彼女と知り合っていなければ、アシッド・アタックに関心を持つことはなかったかもしれません。
【鈴木傾城】
いつも興味深く記事を読ませていただいています。この記事は一年以上前にかかれたもののようですが、私は今日、はじめて読ませてもらいました。それで、鈴木さんに質問です。自分をしっかり持てば、人生を変えることは可能であると、一年たった今でも思われますか?
大勢の人は、目立った問題や不都合がなければ自ら環境を変えようとは思わないかもしれません。私も含め、多くの人間は流されて生きるという生き方を(結果的にではあるにせよ)「選択」しているのだろうとわたしもおもいます。また、日本ではまだかろうじて法も機能しているし、バングラデシュ社会と同じ尺度では考えられないと思いますが、日本社会においても自分さえしっかりもてば、人生は変えられると思いますか。「自分をしっかりもつ」とはどういうことなんでしょうか。
これは、批判とかそういうことではありません。もし、機会があれば、鈴木さんのそれについての意見、考えを聞かせてください。
私も読み返してみました。
ここで言うところの「自分をしっかり持つ」ということはきっと、悪い環境の中にいても安易な方に流されず、志をもって少しでも前へ、少しでも上へと向かう心意気のことなのだと思います。
結果、そこから抜け出せないにしても諦めて何もしないより、もがいてあがいてのた打ち回って一歩でも半歩でも前進できればそれはそれで人生に対して大いにチャレンジしたということになるのではないでしょうか?
何もせずにラッキーが転がってくれば良いのですが、最初から諦めることなく、自らの意欲と力で半歩前に進むということが鈴木様の言うところの「自分をしっかり持つ」という意味に繋がっていくのではないかと長年の読者の一人として考えております。
穏当な生活をしていて、流されているように見える人も、やはりその人なりの「自分」を持って、流されているのではないでしょうか?だからこそ、平穏な日々をおくれているのでは。
不幸な境遇にいる人は、自分を持つことすら困難な位に混乱して流されてしまっているのかもしれません。
自分が今どうとか、こうあるべきとかこれではだめだ、こうしなくては、とかいう事も頭に浮かばないくらいの混乱・絶望・放心状態。そういった混乱状態は、ある期間陥ることは仕方ないのですが、やはり人が生きていく上では、これではだめだ、こういう気持ちを持とう、こうなりたい、こうするべきだ、こうしたい、せめて食べて気持ちよく眠りたい、これだけでもやらなくては、等の気持ちを思い出し、奮い起こし、保つ。それは無意識下でも、意識してでも、そういう気持ちをもつことが「自分をしっかりと持つ」ということなのではと思います。
それはつまり「生」への本能なのだと思います。「生」への本能も打ち消すぐらい打ちひしがれていたら、「自分を持つ」ことはできないと思います。その時、生物にとっての「生」は意味をなさないものになります。これは結局「生物の本能として、生きることが目的」であり、これを言い換えると「自分をしっかり持つ」(言葉上の概念で)という意味なのではないでしょうか。私的解釈です、すみません。