元々、ブラックアジアは東南アジアの暗いアンダーグラウンドの世界を題材にしているのだが、これを私自身がコミカライズ化したら、きっと誰も読めないような凄まじくダークな絵柄でブラックな内容になってしまうに違いない。もっとも私がマンガを描けるわけがないので、ただの夢想だが……。(鈴木傾城)
プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)
作家、アルファブロガー。まぐまぐ大賞2019、2020年2連覇で『マネーボイス賞』1位。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」、投資をテーマにしたブログ「フルインベスト」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。(連絡先:bllackz@gmail.com)
今後も「長い文章」はどんどん忌避されてしまう
以前にも書いたが、日本人の若年層の多くが「文字」を読まなくなっている。(ブラックアジア:そのうち、日本人の半分は日本語が読めないという世界に突入するのではないか?)
本当に日本人の半分が日本語を読めない人になるのかどうかは別にして、日本語を読める人でも「長い文章」を忌避する傾向がかなり強くなった。
最近ではTwitterの140文字ですらも「文字が多い」と感じる若年層が大勢いて、日本で言えばLINEのようなメッセージアプリの10文字くらいでやり取りするレベルの文字量が心地良いということだ。
10文字と言えば、「おはよう」とか「元気?」とか、そのレベルでしかないのだが、若者はそういう短い単語レベルの文章を読み書きして、後は自分の感情や状況はそれらしき絵を使って表現する。
その絵というのは絵文字であったり、スタンプであったり、どこかで拾って来た画像であったり、マンガであったりするのだが、そういうのを使ってコミュニケーションするので、もう長い文章であれこれ書かない。
現代人の「目」をつかんでいる媒体はスマートフォンである。もう本も新聞も紙では読まれないし、そういうのを持ち歩く人も極度に減った。若者だけでなく中高年もみんな「何をするにも」スマートフォンを見ている。
小さなスマートフォンの画面では長い文章を読むのはことさら億劫だし、キーボードもないので長い文章も打てないので、勢い絵に頼ることになる。だから、今後も「長い文章」はどんどん忌避されてしまうのである。
文字が廃れるとか、長文を読む人がいなくなるとか、そういう話をしているのではなく、長い文章は読まれなくなり、実質的に「文字の時代は終わっている」という話をしている。
避けているとますますマンガが読めなくなるという悪循環
私自身は他の誰よりも「文字人間」である。子供の頃から誰かと話しているよりも、テレビを見るよりも、マンガを読むよりも、ただ文字ばかりが書かれた本を読む方が好きだった。それは今も変わっていない。
そのため、「文字の時代は終わった」としても、私自身は文字の世界を捨てることはないだろう。私は文字を読むことで生きている実感を味わっている。
実のところ、私はマンガもほとんど読まない。誰かに勧められて読まざるを得なくなったとか、勉強のために読む必要ができたとか、何らかの「外圧」があった時だけマンガを読む。
読む時も、「さて、読まなければ……」と決意して、受験の参考書でも読むような悲愴な心境で臨むのが常だ。なぜなら、私はマンガの世界観に慣れていないし、絵にも興味がないし、マンガの正しい読み方もよく分かっていないので、慣れないマンガを読むのが苦痛だからである。
「なぜ、文字で表現しないのだろう」とか余計なことも考えてしまうので、ますますマンガを読んでいて苦痛になる。苦痛なのでずっと避けているわけで、避けているとますますマンガが読めなくなるという悪循環である。
そんな私も自分の小説『スワイパー1999』が、ぶんか社でコミカライズされたので、『アジア売春街の少女たち〜スワイパー1999』を読んでいる。
原作が自分のものであるがゆえに、文章とマンガの表現の違いがいろいろ目について、はじめて「ああ、マンガというのはこういう文章をこういう切り取り方をして表現するのか」と勉強になった。
コミカライズされたこのマンガは原作と完全一致ではない。最初からそうしなくてもいいと私は伝えていたし、物語の大筋は同じでも細部は表現者の裁量に任せたのでかなり原作と違う部分もある。
そういうのも含めて「マンガというのはこうなのか」と文字の世界とマンガの世界の違いに興味を持ったのだった。
下手したら100倍も200倍も、文字だけの本より売れていく
小説の売れ行きとマンガの売れ行きを比較したら、もはや比べものにならないほど圧倒的なまでにマンガの方が売れるだろう。10倍以上どころか100倍以上違うかもしれない。
それだけ日本ではマンガの支持が圧倒的なのである。脅威的なまでに違う。
村上春樹の『ノルウェイの森』なんかは1000万部も売れたということで、これはもはや伝説級の売上だ。ところが、マンガの世界では1000万部など吹けば飛ぶような塵《ちり》のような数字なのである。
歴代発行部数ランキングを見ると、『ワンピース』4億9000万部だとか、『ゴルゴ13』3億部だとか、『ドラゴンボール』2億6000万部とか『ナルトNARUTO』2億5000万部……とか、想像を絶する部数が出ている。
もちろん、マンガは巻数が多いので1作品で比較するのはフェアではないかもしれない。
しかし、仮に『ノルウェイの森』が大河小説で100巻まであったとしても、3億だとか4億には到底届かないだろう。そもそも、100巻もある大河小説など誰も読まなくて逆に売上は10分の1以下に減ってしまうはずだ。
そして、マンガは文字の世界よりも30倍も40倍も、下手したら100倍も200倍も、文字だけの本より売れていく。ついでに言うと、マンガは100巻でも平気で売れるのだ。100巻越えは16作品ほどあって、今後も増えていくだろう。『ゴルゴ13』は、いろいろ合わせると全202巻くらいあるという。
同じ「本」だとしても、こうまで潜在的市場が違ってしまっていたら、もはや「世界が違う」というしかない。マンガというのは、それほどまで凄まじい世界だということだ。ちなみに、私はここで挙げたマンガのすべてを読んだことがない。
日本人の多くが今後もマンガにのめり込んでいくのだろう
時代は稀に振り子のように右から左へ、左から右へと振れることがある。とすれば、今はマンガが隆盛だが、これから再び「文章の時代」に戻ってくることがあるのだろうか。人々はこぞって文章を読むようになるだろうか……。
私は今のところ「それはないだろう」と考えている。それこそ今のハイテク文明が何らかの要因で自壊して、文明がグーテンベルクの時代にまで退化したら再び文字の時代が戻って来るかもしれない。
しかし、そんなことを考えるのは時間の無駄だ。文字の時代は戻って来ない。
ではマンガの時代はこれからも永遠に続くのだろうか。いや、私はそれも違うと思っている。ハイテクは、やがてマンガというジャンルも時代遅れにしてしまうような、何か新たな新しい分野を生み出すかもしれない。
それは私には分からない。しかし、何にしろ世の中は今とは違う世界に変わっていくのだろうが、しばらくはマンガという強大なジャンルは続いていくのだろう。
「マンガか……」としみじみ思う。コミカライズされた自分の小説をマンガで読みながら、私は自分自身がブラックアジアをマンガで書いたらいったいどんな作品になってしまうのだろうと夢想してしまった。
元々、ブラックアジアは東南アジアの暗いアンダーグラウンドの世界を題材にしているのだが、これを私自身がコミカライズ化したら、きっと誰も読めないような凄まじくダークな絵柄でブラックな内容になってしまうに違いない。
もっとも私がマンガを描けるわけがないので、ただの夢想だが……。
何にしろ、マンガを描くというのは違う才能である。そして、その才能は巨大な需要がある分野の才能でもある。日本人の多くが今後も大量のマンガを求め、マンガにのめり込んでいくのだろう。
小説など長文を読むのには、何を書いているかよめる「理解力」、文字と文章の意味を解する「読解力」、文章から生み出される物語を読み解く「想像力」の3つが必要だと思います
マンガだと、パッとみて何を伝えたいかすぐにわかりますし、セリフよりも絵であるていどの表現が伝わります
マンガはものすごく大好きですが、小説やビジネス書、専門書など字の本も好きです
表現の方法が、それそれ適してる分野が違うのだと思います
詩や短歌、純文学などは文字だけにしないと、マンガにすると絵のインパクトが強すぎて、深く読み解くことが
難しくなります
表現方法の違いだけで、伝えたいことをマンガで表現するか、文章にするかの2択になるのでしょうか?
これを音楽で伝えるとなると、かなりハードルが上がってしまいますが(笑)
同じものを読むなら確かにマンガは省エネですが、、
漫画ばかりに傾くと、本来人間として大切な部分が根底から崩れ去ると思いますね.
本来人間は、ラクをしたい存在なので、自ずから負荷をかけていかないと、楽な方に流れてダメになってしまいますね.
漫画ってコスパが悪いんですよねぇ…
一冊500円?くらいだとして、10分もかからず読み終わってしまいます。大して中身もないし、二度と読み返すこともない。
文字だけの本なら同じ値段でもその数倍、数十倍の時間楽しめます。
情報量も遥かに多い。
20代くらいまでは、周りに話合わせる為にたまに漫画喫茶で話題作読んでましたけど、30過ぎてからは殆ど読まなくなりました。