耐えられないような重度なストレスで自分が潰れる結末が見えているのであれば、それは自分の世界ではない。自分の居場所ではない。そうだと悟ったのであれば、そこから抜け出るのが最適の選択となる。環境のほうを変えるように努力するという生き方もあるが、その世界に人生を捧げるつもりがないのであれば、それ自体が苦痛の人生になってしまう。(鈴木傾城)
プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)
作家、アルファブロガー。まぐまぐ大賞2019メディア『マネーボイス賞』1位。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」、投資をテーマにしたブログ「フルインベスト」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。(連絡先:bllackz@gmail.com)
「早く逃れたい」と考えて暮らす
ごく普通に誰かに雇われて仕事をしている人と話をすると、「ずっとこの仕事をしたい」と考えている人以上に、「一刻も早くこの仕事を辞めたい」と考えている人も多いことに気づく。
「辞めたいんですが、家族もありますし」
「今さら仕事を辞めたら生きていけないです」
「もう年だし、他にできることがないので……」
辞めたいのに辞められない人は、様々な理由を私に言う。そのどれもが切実なものである。確かに社会人として暮らしているからには、自由奔放に仕事を辞めるようなことはできない。そんなことを繰り返していたら最後には信用を失う。
だから、かなり多くの人がやりたくもない仕事でも耐えながら続けている。
基本的に「雇われてする仕事」というのは、それがサラリーマンであれ、製造業であれ、建設業であれ、事務職であれ、接客業であれ、個人事業主であれ、仕事を選ぶことができない。
結果として、自分がやりたくない仕事をしなければならないこともある。また、嫌悪するタイプの上司とも深く関わらなければならない時がある。しかも、薄給でこきつかわれたりする。その環境は、誰にとってもストレスだ。
しかし、それはそれで「生活のためだ」と完全に割り切って生きる人も多い。あえて、何も考えないで生きている人もいるだろう。しかし、ストレスを引きずって「早く逃れたい」と考えて暮らしている人もいる。
深く人生を考える真面目な人であればあるほど、自分のやっていることに疑問を感じてストレスを深めていく。だから、真面目な人はしばしば「このままでいいのだろうか」と苦悩を深め、うつ病になってしまったりする。
雇われ仕事をするのであれば、自分の生き方や生まれてきたことの使命や、より良い人生とは何かを考える人よりも、人生のことなど何も考えないで、ただ目の前のことだけに反応して、テレビでも見て、ビールでも飲んで、酔っ払って寝てしまうような人の方がより良く生きられるように見える。
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過酷な状態の中で生きていると、必ず潰される
最近、HSP(ハイリー・センシティブ・パーソン=非常に感受性が強く敏感な気質もった人)の存在がクローズアップされている。HSP気質の人は、相手の些細な一言、しぐさ、表情を敏感に読み取って、考え込んだり、くよくよしたり、思い悩んだりする。
一方で、自分に向けられた批判や悪口などまるっきり意に介さない人もいる。目の前の相手がどんなに粗雑な人間であっても、まったく動じない。相手が怒ると、恐れるどころか逆ギレして喧嘩して、状況がより悪化しても何とも思わない。そういう人もいる。
トラブルが起きた時、その場はうまくしのげるが、後で思い出して心が病む人もいれば、その場その場で衝突ばかり起こしているのに翌日には何も覚えていないような人もいる。その差は同じ人間とは思えないほど違っている。
ストレス耐性は人によってまったく違う。しかし、一般論で言うと、常にストレスのかかる現場にずっといるというのは、その時には何とも思っていなくても、徐々に精神的ダメージを蓄積させて、それが心を蝕む要因となる。
人間はロボットではないのだから、何も思わないで生きることはできない。過酷な状態の中で生きていると、必ず最後には無理が生じて精神が壊れる。徐々に壊れる人もいれば、太く固い幹がボキッと折れるように崩れてしまう人もいる。
合わない仕事、長い拘束時間、無理な納期、激しい圧力をかけられ続けると、人は精神的にも肉体的にも壊れていく。しかし昼間の仕事の場合は、そんな簡単に辞められるわけではない。
すぐに辞めるような行為を繰り返していると、次第に次に働く場所がなくなってしまうからだ。自分の信用のためにも、生活の安定のためにも、辞めたくても辞められない。「辛くても耐えなければならない」というのが普通の人の実感だ。
それでも、どうしても自分に合わない場所がある。自分のいるべき場所ではないと感じる職場もある。長く続けても何ら実りがないばかりか、心身共に消耗してしまう職場もある。
そこは「自分のいるべき場所ではない」のだから、そこにいればいるほど人生を無駄にすることになる。しかし、分かっていても辞められない。
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「人間には足があって移動することができる」
辞めたくても辞められない。そのストレスは、小さなダメージが波状的に襲いかかって真綿で首を絞めるようなイメージがある。毎日毎日、仕事を続けることによって自分が追い詰められているのが分かっていながら、そこから逃れられない。
何らかのしがらみや、金銭的な事情や、惰性や、あきらめに飲まれて、「地獄」にそのまま居続ける。仕方がない、と思ってしまう。そして、自分が病んでいくのを分かっていながら避けられず、気が付いたときは手遅れになっているのである。
耐えられないような重度なストレスで自分が潰れる結末が見えているのであれば、それは自分の世界ではない。自分の居場所ではない。そうだと悟ったのであれば、そこから抜け出るのが最適の選択となる。
環境のほうを変えるように努力するという生き方もあるが、その世界に人生を捧げるつもりがないのであれば、それ自体が苦痛の人生になってしまう。
だから、基本的には自分がしたいことができる場所に行くのが正しい。他人にとって何でもない世界でも自分が地獄と感じるのであれば、「そこから抜け出る」というのが正しい答えになる。
しかし、それは口で言うのはたやすいが、実際は「苦渋の決断」になる。そこに生活基盤がある場合、抜け出すことによって明日から大変なことになる。しがらみを断ち切ることにもつながるし、場合によっては他人に批判されたりすることもある。
先の見通しが立たずに、自分自身が強い不安にさいなまれるのは必至だ。多くの場合は、収入が途絶えることがネックになり、そこから抜け出す決断ができなくなる。地獄でも我慢しているのは、そのほとんどが収入の問題だ。
金のために生きているわけではないと言っても、金は切実な問題でもある。だから、誰もが行動が鈍り、地獄に残ることになってしまう。慎重な性格の人であればあるほど、身動きできずに進退窮まることが多い。
しかし、状況が好転する見込みがない仕事や環境であれば、自分の致命傷にならないように一刻も早く逃れる決断をすべきなのである。人間と植物が違うのは、人間には足があって移動できることだ。辞める決断は時には重要だ。
2~3世代前までは農業・漁業・林業が主流だったので、高度な技術は不要で真面目にコツコツ頑張れば頑張っただけ報われる時代。そして、みんな個人事業主だから他人に使われるストレスがなかったと思われます。
時代は変化しているのでそういう時代に戻れませんが、人間らしく健康で元気に生きていた時代だった様に思います。
数年前の自分だったら重度のストレスで潰れてしまうまで、前の会社に留まっていたと思いますが、
鈴木さんの「辞める決断は時には重要」という記事を時々拝見していたので、2016年頃から転職の準備をし、2年程かけて転職しました。前の会社はパワハラ上司率50%で、パワハラが正当化されてるような会社で人間性が良く無い社員ばかりだったので、前の会社の人たちとは転職後も一切関わらないようにしています。(仕事上得た、他社の方との良い関係は維持しています。)
当時、迷いはほとんどなく転職を決めましたが、決断して良かったと、日々感じています。
鈴木さんの記事に接していて、本当に良かったと思っています。
ありがとうございます。