社会の底辺というのは様々な人間がうろついているのだが、大都会にはそうした人間たちが行き交う多くの人たちに埋もれて時々姿を現す。私たちは確かに彼らを見ているはずなのだが、彼らは「群衆」に紛れて目立たない。
大都会は「他人は他人」であり、すれ違う他人がどんなに奇妙であっても、危険であっても、荒んでいても、まったく意に介さない。
それこそ、若い女性のスカートがまくれて下着を剥き出しにしたまま路上で寝ていても、誰もが知らないフリをして通り過ぎていく。あるいは、誰かが道ばたに座り込んで気分が悪そうな顔をしていても誰も何もしない。
誰かがケンカをしていても、女性が暴力を受けていても、やはり人は黙って通り過ぎて関わらない。大都会というのは、そのような無情なところがある。誰もが自分のことで精一杯で、道ばたの人に意識を向けることはない。
社会の底辺の様々な形がそこに確かに存在して私たちは誰もがそれを「見ている」のだが、自分の人生にとってそれらの存在はエキストラであり、関わらない限りは無意味な存在なのである。
しかし、たまにそうした存在に意識を向けることで社会の底辺が見えてくる。私はそうした存在を「見る」のが好きだ。それぞれが様々な「人生の重荷」を抱えた人間である。