「ギャンブルで負けた金はギャンブルで取り戻せ」は人生の最期になる可能性が高い

「ギャンブルで負けた金はギャンブルで取り戻せ」は人生の最期になる可能性が高い

幸運は確率が低い。確率が低いものを追うのは合理的ではない。だから、勝つ確率の低いギャンブルに人生を賭けるのは合理的ではない。幸運の反対語は不運である。幸運の確率が低いところに賭けているのだから、「不運の確率が高い」ということに気付かなければならない。(鈴木傾城)


プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)

作家、アルファブロガー。まぐまぐ大賞2019、2020年2連覇で『マネーボイス賞』1位。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」、投資をテーマにしたブログ「フルインベスト」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。(連絡先:bllackz@gmail.com)

「幸運」を得て他人より恵まれたいという祈りにも似た気持ち

11月3日に刊行した新著『どん底に落ちた養分たち』には、パチンコ依存で生活が崩壊していった人たちを大量に紹介している。(Amazon:どん底に落ちた養分たち〜パチンコ依存者はいかに破滅していくか?

多くの人が指摘するように、パチンコの全盛期は終わっていて、パチンコユーザーはどんどん減って中小のホールも倒産しているというのが現状だ。

ところが、未だに約890万人近くもパチンコユーザーがいて、約300万人近くが依存症か依存症に近い人たちである。

日本はカジノがないにも関わらず、世界でも有数のギャンブル依存症の患者を抱えており、その8割はパチンコやパチスロがメインなのである。

パチンコについては数十年前からたびたび問題が指摘されているにも関わらず、多額の政治献金によって厚く保護されており、今も深刻な依存者を生み出し続けている。

いったん、パチンコにハマると、そこから抜け出せなくなる。借金をしても、子供を放置しても、また会社の金を横領してもパチンコに邁進していく。

パチンコをはじめとするギャンブルは、泥沼に引きずり込まれると人間を廃人化させる。

ギャンブルをしない人間には、それの何がそんなに面白いのかまったく分からない。基本的にギャンブルとは、「幸運」を得て他人より恵まれたいという祈りにも似た気持ちで成り立っている。

自分が学歴的にもキャリア的にも技能的にも何も持たない人間であったとしても運が良ければ勝てる。だから、自分の人生を一気に逆転するために、それにのめり込む人がいる。

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ギャンブルという「労働」で一攫千金が成し遂げられる?

ギャンブルは、ツキと幸運で一攫千金が成し遂げられる可能性がある。一攫千金でなくても何かしらの金が入るかもしれない。それは自分自身の能力はまったく関係ない。道ばたで金を拾ったのと同じ類いの幸運だ。

道ばたで大金を拾って誰にも返さなくてもよい、という話であれば誰もが狂喜乱舞するだろう。ギャンブルで勝つというのは、それと似たような快楽である。

だから、いったんその快楽が形成されると、もうそこから逃れられない。

パチンコを含め、すべてのギャンブルはなかなか勝てない。だからこそ、たまに勝てると強い快楽に浸れる。それがあるので、多くの人が一攫千金の期待感にのめり込み、ハマって抜けられない。

そんな人が約300万人もいるというのだから凄まじい。彼らがゾンビのようになって一攫千金を求めてうろついている。

しかし世の中をよく観察してみれば、本当に儲かっているのは、ギャンブラーではないことが分かる。儲かっているのは、場を提供している胴元の方だ。

パチンコでも、競輪・競馬・オートレース、あるいは宝くじでも同じだ。胴元が儲けている。賭ける側の人間(ギャンブラー)がたまに勝つことがあっても、総合的に見れば金を搾り取られている。

ほとんどの場合、ギャンブラーは「カモ」なのである。

ギャンブルは胴元が仕切っている。だとすれば、そのシステムの上で勝負をするのであれば、胴元の立場が強いであろうことは直感的に理解できるはずだ。

パチンコのビジネスが成り立つのは、パチンコホールが負けないシステムになっているからだ。プレイヤーの腕は長い目で見ると関係ない。

そうでないとギャンブル・ビジネスは成立しない。もし、確率的に50対50なのであれば、胴元は頻繁に破綻に追い込まれているはずだが、そうなっていない。

それはすなわち、あらゆるタイプのギャンブルでは胴元が勝つ確率が、常に50対50よりも高いことを意味している。

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幸運がなかなか自分に回ってこない理由とは?

パチンコホールが駅前や郊外の広大な土地に巨大なビルを建ててホールを運営しているということは、すなわちそこに賭ける人間には不利な確率が科されているということだ。

胴元であるホールも勝つか負けるか分からないような設定をしていたら、ホールも何度破産するか分からない。普通、胴元が破産することは絶対にないのだが、それは胴元が常に勝つようにできているということを意味してる。

こんなことは秘密でも何でもない。子供であっても理屈は理解できるはずだ。

しかし、ギャンブラーは胴元が勝つのが分かっていても騙されに賭場に向かう。道ばたに金が落ちている類いの幸運を賭場に探しにいく。

幸運はそれほど世の中には転がっていない。それは、たとえば道ばたに金が落ちていて自分が拾ったという「幸運」の例で考えれば分かりやすい。

道ばたに金が落ちているのに気付く日はほとんどない。金は誰にとっても大切なものなので、人はゴミを落としても金はなかなか落とさないようになっている。

だから、金が道ばたに転がり落ちている確率はもともと少ない。さらに、道ばたに金が落ちていれば誰でも拾う。道を歩いているのは自分ひとりではない。

自分の前にも後にも何十人、何百人、何千人、何万人が歩いているのだ。これは仮に金が落ちていたとしても、自分以外の誰かが先に気付いて拾っているということだ。

金が道ばたに落ちている確率が低いのに、自分がそれを拾う確率も低い。だから、幸運はなかなか自分に回ってこない。誰でも欲しいものは、簡単に手に入らないようになっているのである。

「金が道ばたに落ちていて、それを自分が拾う」という偶然でさえも確率が低いのに、ギャンブルのように仕組まれたものであれば、もっと確率が低いのは言うまでもない。

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ギャンブルは「不運の確率が高い」ゲームである

幸運は確率が低い。確率が低いものを追うのは合理的ではない。だから、勝つ確率の低いギャンブルに人生を賭けるのは合理的ではない。

幸運の反対語は不運である。幸運の確率が低いところに賭けているのだから「不運の確率が高い」ということに気付かなければならない。

ギャンブルは幸運よりも不運の確率が高いゲームなのだから、やればなるほど「不運が積み重なる」ということになる。

不運に見舞われる確率の方が高いのだから、関わるほど不運の時間が長くなる。ギャンブルにハマっていない普通の人であればすぐにその点に気付く。

しかし、もはやそんな単純な話ですらも感覚的に分からなくなってしまったのがギャンブラーである。日本だけでも、300万人近くが感覚が狂って正常でなくなっている。

ギャンブルは結局、何にしろ胴元が勝つ。それでも、多くの人が心の奥底ではそれが分かっていて、ギャンブルから逃れられない。

「ひょっとして勝てるかもしれない」
「一攫千金が自分の身に起きるかもしれない」

そのように思うと、負ければ負けるほど抜け出せなくなるのだ。抜け出せなくなって借金まみれになり、本当のどん底にまで転がり落ちたらどうするのか。

ギャンブラーは、そこで大借金をするか、金を盗むかして「最後の大一番」に望む。

「ギャンブルで負けた金はギャンブルで取り戻せ」

しかし、幸運は確率が低い。そのため映画のような見事な逆転劇もほとんどない。最後の大一番は、人生の最期になる可能性が高い。

ギャンブルに関わっている人間と付き合うべきではない理由がここにある。「不運を積み重ねる人」と付き合って、何か得することでもあるのだろうか。

どん底に落ちた養分たち
『どん底に落ちた養分たち パチンコ依存者はいかに破滅していくか?』

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