
批判者や敵対者とはわかりあえなくてもいい。敵対したままでもいい。嫌われてもいい。好かれる努力をしなくてもいい。見捨てていい。自分の貴重な時間を使って説得しなくてもいい。相手に合わせなくてもいい。相手を理解しなくてもいい。あっさりと断ち切ればいい。それが効率的な生き方だ。(鈴木傾城)
プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)
作家、アルファブロガー。著書は『ボトム・オブ・ジャパン』など多数。政治・経済分野を取りあげたブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」を運営、2019、2020、2022年、マネーボイス賞1位。 連絡先 : bllackz@gmail.com
SNSは激しい言葉の応酬で相手を叩きのめす言語暴力装置
SNSが流行する兆しを見せていた2010年代初頭、それは「世界中の人をつないで友だちが増える」みたいな喧伝をされていた。私はそんなものは、1ミリも信じなかった。当初から「絶対にSNSというシステムは人々の対立と衝突と誹謗中傷を深刻化させる」と私は主張していた。
結果はご覧の通りだ。SNSは敵対する相手とつながり、激しい言葉の応酬で相手を叩きのめす言語暴力装置と化した。これこそが、私が予測していたものであった。人間の本性というのは、そういうものだったのだ。
世界は言うまでもなく、多種多様だ。いろんな人がいろんな考え方、生き方、ライフスタイル、文化、習慣を持ち、それぞれ自分のやり方に従って生きている。
当然、日本の中でも多種多様な考え方の人がいて、同じ日本人と言っても仔細に見るとひとりひとりまったく違う。比較的、画一的で似通っていると言われている日本人でも、個性は千差万別だ。
地域によっても違う、性別によっても違う、職業によっても違う、資産額によっても違う、そして世代によっても違う。
たとえば、現代の80代の日本人と20代の日本人は、使っている言葉さえも微妙に違っているし、互いに相手のよく使う言い回しや言葉が理解できないことすらもある。それは別に不思議なことでも何でもない。
1億2000万人の人口がいる国で、みんながみんな同じ考え方をしていると思う方がどうかしている。人は違っていて当然なのだ。
「考え方や生き方が違う」というのは、人々がそれぞれ自分流の生き方や考え方を持っているということである。中には、自分にはまったく理解できない生き方や考え方をしている人と遭遇する。問題はここからだ……。
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カリマンタン島でひとりの女性と知り合う。売春の世界にいる彼女に惹かれて気持ちが乱れるが、疑惑もまた膨らんでいく。
自分を批判・攻撃してくる人間が一定数いる
互いの違いを認識し合うのは、とても意外な驚きがあったり、楽しかったりすることもある。だが、それだけではない。中には衝突したり自分を激しく当惑させたり、怒らせたりするものもある。
人々には自分が譲れない考え方や生き方があって、どうしてもそれを変えることができない部分があるのだ。たとえば、宗教的なものや政治的な主義主張に関する事柄は、往々にしてそれを認めない人と激しい論争や対立を引き起こす。
政治・宗教のような大仰なものだけではない。単に相手の性格のちょっとした点、相手の話し方や態度、相手のファッション、相手の趣味が合わないというだけでも、人は面白いほど対立し、衝突し、反目し合うのだ。
これは何を意味しているのかというと、自分が何をしてもしなくても自分を批判・攻撃してくる人間が一定数いるということなのだ。
わかりやすいのは、個性がとんでもなく強い人や、主義主張が明確だったり先鋭だったりする人だ。このような人々は他人よりも目立つ分だけ、批判や攻撃を受けやすい。それを避けることは絶対にできない。
だが、個性を消して主義主張をしなくても、それで他人からの批判や攻撃を避けられるかと言えばまったくそんなことはない。この世で批判・攻撃を受けない人はどこにもいない。
柔和で優しい人でも、慈愛に満ちた人でも、理性と知性を持った人でも、聖人君子のような生き方をしている人でも、ちょっとした材料で批判されるし攻撃される。つまり、誰でも間違いなく誰かに批判され、攻撃される。
もちろん、批判や攻撃を受ける「度合い」はそれぞれ違う。ほとんどすべての人から批判・攻撃を受ける人もいるのだが、中にはそれほど批判や攻撃が目立たない人もいるのは間違いない。
だが、他人からの批判や攻撃をゼロにすることなどできはしない。世の中はそれほど多種多様であり、千差万別である。
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敵対者のことは考える必要はない
世界は、私たちが想像する以上にたくさんの人間が存在している。そして人々の考え方や生き方は驚くほど幅がある。とすれば、自分とはまったく逆の考え方を持っている人が存在しても不思議ではないし、自分の趣味や嗜好に批判的な人がいても何らおかしいことはない。
インターネットが普及し、SNSが定着するに従って、自分をさらけ出す人も増えているが、それと同時に自分に対する批判や攻撃や誹謗中傷に悩む人も増えている。
そのようなことになったとしても、基本的に私たちは批判者や敵対者を転向させようとか説得しようとか、そんなことは何ひとつ考える必要はない。敵対者にいちいち時間を使う必要もない。
私たちは、100%理解してもらおうとして相手を正論や論理で説得しても無駄なのだ。相手には相手なりの自説や信条があるので、よけいに意固地になってそれに固執する。それは理屈ではなく、感情なので折り合えない。
相手にどれだけ反論しようが説得しようが無駄だ。説得されると、逆に憎悪が返ってくる。それが人間の心なのだ。
私は好きに生きるのに忙しいので、最初から無駄なことはしたくない。
自分の個性や生き方を認めてくれない人や、自分を激しく攻撃・批判してくる人を説得したり、逆批判したり、論争したりするのは、場合によっては必要なときもあるかもしれない。だが、常に必要であるとは限らない。
なぜなら、過大なエネルギーと時間を消費して相手と議論したところで、理解してくれることもなく、むしろ逆に意固地にさせてより激しく憎しみを募らせる結果になることの方が大きいからである。
敵対者とかかわっても報われないことの方が多いし、自分の貴重な時間も無駄になる。かかわればかかわるほど泥沼になる。それよりも、自分のやりたいことに力を入れた方がいい。人生は短いし、やるべきことは山ほどある。
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世界観も生き方も違いすぎて「話が通じない」
批判者や敵対者とはわかりあえなくてもいい。敵対したままでもいい。嫌われてもいい。好かれる努力をしなくてもいい。見捨てていい。自分の貴重な時間を使って説得しなくてもいい。かかわらなくてもいい。相手に合わせなくてもいい。相手を理解しなくてもいい。
あっさりと断ち切ればいい。それがもっとも効率的だ。
どのみち、敵対者はあまりにも世界観も生き方も違いすぎて「話が通じない」のだ。わかってもらおうと思わなくてもいい。話が通じない上に自分の邪魔になるのであれば、関係を断ち切るのが合理的な対処方法である。
努力しなければならないのは、最初から自分をすんなりと理解してくれる人を探したり、増やしたり、関係を強化する方だ。間違えても批判者や敵対者を説得したり、転向させることではない。
「自分の理解者とつながり、好きになってくれる人を好きになり、そういう人との関係を強化していく」
この方が、批判者や敵対者を転向させるよりも効率が良く、やり甲斐もあり、充実感がある。批判者や敵対者にわかってもらおうとして泥沼に落ちる必要はない。私たちがしなければならないのは「取捨選択」だ。
素晴らしい人に囲まれるためには、理解者と敵対者をふるいにかける必要がある。理解者を増やし、敵対者を遠ざける。これは、とてもシンプルな話である。
だが、「他人に嫌われたくない」「誰にも好かれたい」という気持ちがある人、あるいは、律儀で、まじめで、責任感が強い人ほど、無意識に「批判者や敵対者にわかってもらえること」に努力してしまう。
気持ちはわかるが、それはやめた方がいい。私たちがしなければならないのは、「自分の味方を探し、増やし、関係を強化する」ことだ。その方が効率的なのだから、そこを全力で取り組めが生きやすい。







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