最近、西成区あいりん地区で事件があった。47歳の男がスーパーマーケットで弁当とシャインマスカットを盗んでいたのを保安員に発見された。男は自転車で逃げようとしたときに、とめようとした保安官を怪我させていたのだった。
その際、男は男性と揉み合いになってカバンを落としたのだが、それを拾った女性からカバンを奪い取る際に、女性の指を骨折させる怪我もさせていた。男は逃げたのだが、あとになって警察に出頭してそのまま逮捕されている。
この47歳の男は必死だった。それだけでも生活に窮していたのがわかる。
日本最大のドヤ街は、大阪の西成区あいりん地区にある。あいりん地区にはさまざまな理由で、日本中から人生のどん底に転がり落ちてしまった人が集まる吹き溜まりのような場所で、多くの人が生活保護を申請して簡易ドヤで暮らしている。
中には生活保護すらも受けられない人もいる。犯罪を犯して逃亡生活をしている人や、生活保護を受けるための要件すらも守らない人だ。
ケースワーカーと会う日にいなかったり、ハローワークで仕事を探す努力をしなかったりする人は、生活保護を打ちきられてしまう。そうした人たちがホームレスと化し、路上生活をしているのもあいりん地区では見ることができる。
路上で寝転がっているホームレスを見つめながら「彼らは人生の節目で、選択肢を間違い続けているのではないか」と思うこともある。
誰でも、しばしば何らかの決断を強いられる。人はそのときに自分にとって最善であると思える決断をしている。しかしその決断は、そのときは最善だと思ったとしても、あとで考えると最善ではなかったということもよくありえる。
決断というのは、いつもすべての情報をよく吟味してからおこなえるわけではない。往々にして、断片的な情報や、あいまいな状況の中で、大切な決断を下さなければならない局面に追い込まれる。
「この選択肢を選べば成功する。こちらの選択肢を選べば失敗する」というのは、その瞬間ではわからないことのほうが多い。そのため、あとで「こうすればよかった」と激しく後悔することも多い。
人生を何度も生き直す方法は、あるかも?
(もし、人間が何度も生き返って、過去の記憶を保持したまま人生をやり直せるならば、一度目の選択肢よりも二度目の選択肢、二度目より三度目の選択肢のほうが正しいほうを選べるので最悪よりも最善に近づくはずだ……)
私は彼らを見ながら、そのように考えてもみた。通常、人生を何度も「生き直す」というのは難しい。しかし、ありりん地区のホームレスを見つめながら、私はふと思ったのだった。
「人生を何度も生き直す方法は、あるのかもしれない……」
私たちが何かを決断するとき、つねに「思考のクセ」にとらわれる。その人固有の「思考のクセ」があって、それは親兄弟でも同一ではない。通常、この「思考のクセ」は、無意識に構築されたものであり、本人は意識できない。
困ったことがあったら「様子を見る」という人もいれば「すぐに誰かの助けを求める」という人もいれば、「自分でどうしたらいいのか考えてみる」という人もいれば「そこから逃げる」という人もいる。
誰でも、瞬発的にくだす決断には一定のパターンがある。そのパターンが、その人の「思考のクセ」である。
個人のありとあらゆる決断は、この「思考のクセ」を通してなされる。ここにひとつの危険が潜んでいる。仮に、それが間違った選択肢を選ぶことがクセになっていたとしても、本人はなかなか気づかないのだ。
「思考のクセ」が正常かつ健全なもので、基本的に本人に利益をもたらす方向に視点が定まっているのであれば問題ない。その「思考のクセ」によって、本人は自分の人生を無意識の決断によって利益を得ることができる。
「思考のクセ」でさまざまな利益を人生から得て、経済的にも精神的にも大きな幸せを引き出すことができる。
破滅的な決断を回避し、つねに全体を俯瞰して有利な決断を下せるのだから、予期せぬ出来事や不測の事態があったとしても、それを埋め合わせする決断を次々に繰り出して、うまく切り抜けて挽回できることが多い。
このような、正しい選択肢をきちんと選べる人がいる。不確実性の高い世の中で選択を間違っても、すぐに軌道修正ができて、ふたたび正しい選択肢に戻れる。そうやってうまく生きていける人もいる。
なぜ自分が追い込まれるのかわからない?
しかし、この「思考のクセ」が不健全で、ゆがんでいて、本人に不利益しかもたらさないものであればどうなるのか。そうであれば、決断するたびに失敗やトラブルが返ってくるわけであり、自分の人生を破壊する方向に転がり落ちていく。
日本最大のドヤ街であるあいりん地区には、まさにそうした人たちが集まっている。
たとえば、明日の生活にも窮するようになったら、「何とか働き口が見つけられないか」とか「福祉施設に助けを求めることができないか」とか「仲間に一時的にでも助けてもらえるように働きかけられないか」とか、建設的に考えることができる人もいるだろう。
しかし、そこから逃げようとして「酒を飲んで一時的に忘れる」とか、「腹が減ったのでスーパーで盗もう」と決断する人もいるのだ。花園南のスーパーマーケットで弁当とシャインマスカットを盗んだ47歳の男は、まさにそうした思考のパターンがあったのだろう。
誤った決断を行う「思考のクセ」があると、ほんの小さな決断が大きなトラブルを呼び寄せることになり、そのトラブルに対しての対応もまた破滅的な決断によって状況を極度に悪化させてしまう。
こうした「思考のクセ」を放置していると、遅かれ早かれ破滅する。
窮地を切り抜けて何とかやっていける人がいる。その一方で、いつも日常のトラブルに追い込まれて人生を破壊してしまう人もいる。それは、無意識下にある「思考のクセ」が関係していることは十分に考えられる。
そうであれば、しばしばトラブルで追い込まれてしまう人は「思考のクセを矯正すればいい」ということになる。
ところが、それが簡単にいかない。
意識できているものであれば矯正できるのだが、意識できていない以上は矯正すらできないからだ。「思考のクセ」に問題があると気づけない以上、なぜ自分が追い込まれるのか、その要因もわからないのは当然だ。
思考のクセを無意識に軌道修正する方法がある?
この「思考のクセ」の矯正は考えているほど簡単なことではない。
クセというのは、意識して直そうと思わないと直せないのだが、その前に「自分にはこのようなクセがある」ということに気づくこともないので、そこからして軌道修正が困難なのだ。
何度も何度も生まれ変われて「この選択はまずかった」というのが学習できているのであれば、生き返るごとに賢明になるのだが、人生は一度きりだ。
無意識に構築された「思考のクセ」を、自分に利益をもたらす健全なものに軌道修正する「うまい方法」はないのか? ひとつあると私は思う。それも、無意識に軌道修正する方法である。
それは、「読書をする」ことだ。
本を読むというのがなぜ人間にとって重要なのかというと、それによって自分にはない価値感を体系的に知ることができることや、自分にはない考えかたを知ることができるからだ。
そして、先人の人生や哲学を読書によって追体験することによって、自分自身の生きかたを変えたり、正しい方向に定めたりすることができる。つまり、ここで「思考のクセ」が矯正されるのだ。
さらに、読書は強力な人生の指針となる。
読書の本質は、目的を手に入れるための「近道」である。本を読むことによって、その世界の奥義を試行錯誤することなく手に入れることができる。正しく読書ができれば、人生を劇的に変えてしまうことさえできる。
成功を手に入れるための知恵と「近道」がある
経営者になりたい人は、名経営者だった人の伝記を読むことが多い。なぜ、過去の著名経営者の全集を買い集めて読むのか。それは、成功への「近道」が、そこに詰まっているからだ。
成功を手に入れるための知恵と「近道」が示されている。
人々が聖書のような宗教書を繰り返し読むのは、そこに癒やしや正しい生きかたをするための「近道」が詰まっていると信じているからだ。
人々が小説を読むのは、他人の人生が小説のなかで表現されていて、その人生で何が得られて何を失うかという「人生の帰結」が詰まっているからだ。
読むことで、自分が知らない世界に触れることができる。そして、その世界にいればどのような人生になり、決断することによって何が起き、その決断の集大成として人生がどのような結果になるのかを知ることができる。
まさに人生の「近道」がそこに凝縮されている。
じっくり読むことによって、他人の人生の中から合理的に生きる方法を知る。合理的な生きかたがあることを繰り返し触れることによって「思考のクセ」が軌道修正されて良い側に変わっていく。
読書をするというのは、「何度も生き直す」ということなのだ。読書で他人の人生を追体験することによって、無益な試行錯誤を繰り返さなくてすむ。そして、長いようで短い人生の中で、大きく間違わないで生きることができる。
だから「読む」というのは、私たちが思っている以上に大きな利益を人生にもたらすことになる。もちろん、本をじっくり読んだからといって、それだけで成功した生きかたができるわけではない。
しかし、何が成功して何が失敗するのかという合理性や、何が正しくて何が間違っているのかという判断が無意識下で働くようになる。その判断のひとつひとつが「思考のクセ」となって身についていく。
決断するたびに失敗やトラブルが自分に返ってくる傾向がある人は、まず最初に「大量の書籍を読み込む」ところからはじめると「悪い思考のクセ」を無意識に改善することができるようになり、人生の軌道修正が可能になる。
100冊や200冊では、だめだ。1000冊や2000冊を読まなければならない。そうすることによって「思考のクセ」が磨かれていく。
かくいう私も、けっこうリスクのある際どい世界を移ろいながら生きているのだが、それでもまだ破綻していないのは、私がもともと判断力に優れていたからではなく、これまで読んだ本を通じて、無意識に「自分が損しない決断」をしていたからだと思っている。
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