教育の現場でもフェミニズム的でかつリベラルな思想が社会に定着し、「男らしさ」「女らしさ」を否定するのが主流になってきている。
「男は男らしく」というのを堂々を語るのは「マッチョ思考」だと欧米では言われており、南米がまさにマッチョ文化であることで「女性差別の思想」としてしばしば批判を浴びている。男らしさを強調するマッチョ文化はもう時代遅れとフェミニストは言う。
「男らしさというのは、社会が押しつけたもの。だから囚われなくてもいい」というのがリベラルな社会の世界だ。
実は、それはあながち間違っていない。なぜなら、人は性別に関わらずそれぞれ個性があるからだ。
「男らしさを押しつけられることで生きづらさを感じる」という男は少なくないのだ。それならば、「男らしさから降りればいい」というのが最近のリベラルやフェミニストたちの回答である。それを認めるのが多様性でもある。
しかし同時に、多様性でそれを認めるのであれば、逆に「男は男らしくあるべきだ」と考える人の従来からの意見も「時代遅れ」とか「危険だ」と否定するのは多様性の否定であると気づかなければならない。
「男でも男らしくしなくてもいい」も「男は男らしくあるべきだ」も認めるべきであり、それぞれ否定すべきではない。どちらも個性であり、どちらが正しいわけでもない。
しかし、懸念すべきことがある。「男は男らしくあるべきだという考え方は間違っている」と断言し、批判し、攻撃し、この考え方を抹殺しようとするリベラルやフェミニストたちも増えていることだ。
そこでは、男は男らしくあるべきと主張する人間が、まるで差別主義者かのように忌避され、排除されたりする。「男でも男らしくしなくてもいい」という考え方を狂信するあまり、「男は男らしくあるべきだ」を激しく攻撃する。
そして、社会は混乱する……。