人間が「同質の人間」と一緒にいるのは、危険な社会で生き残る知恵でもあった

人間が「同質の人間」と一緒にいるのは、危険な社会で生き残る知恵でもあった

ジャングルで出会うもっとも危険な生き物は猛獣ではなく人間であるとよく言われる。女性はジャングルどころか、街でも知らない人間が危険だと今も感じるだろう。人類はみんな兄弟ではないし、世界は平和でもない。人間にとって、他者が侵略者だった時代は長かった。(鈴木傾城)


プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)

作家、アルファブロガー。まぐまぐ大賞2019、2020年2連覇で『マネーボイス賞』1位。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」、投資をテーマにしたブログ「フルインベスト」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。(連絡先:bllackz@gmail.com)

異質な人間は目立つ。目立つと一挙一動が注目される

ずいぶん昔の話になるが、私はパナマから来た女性と付き合っていたことがあった。かつて池袋北口は真夜中になると外国人女性が集まって来てきたのだが、彼女とは路上でたまたま知り合って意気投合した。

付き合ったと言ってもほんの短い間で、一週間に一度会うくらいのペースを数ヶ月続けただけだが印象に残っている。

私は20代の終わり頃、メキシコ・ベリーズ・グアテマラ・エルサルバドル・ホンジュラス・エルサルバドル・ニカラグア・コスタリカ……と旅をしていたこともあったのだが、コスタリカで熱中症にかかって旅を中断し、その先のパナマには入れなかった。

そのため、パナマには「行きたかったが入れなかった」という悔しさが残っていて、そういうのもあって日本でパナマ女性には何となく特別な思いを持っている。

その彼女だが、とても濃い褐色の肌をしていて、パナマ人だと言わなければ間違いなくアフリカ人と間違えられた。

彼女と一緒に街を歩いたり電車に乗ったり食事に行ったりすると分かるのだが、彼女はそこにいるだけで目立ってとにかく注目された。誰もが彼女を見つめるのである。人種が違うので、とにかく彼女は見つめられた。

それは子供になればなるほど顕著で、やはり自分たちと異質だと思うのだろう。真っ黒の肌をした彼女を、食い入るようにして、じっと見つめていた。別にこれは差別意識があるからとかではなく、単に「違っているから」であるのは間違いない。

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多くの人は、何とか安心できる場が欲しいと無意識に思う

人は異質な存在があると、どうしても異質さに注意が引かれる。ただ、先進国では人をじろじろ見つめるのは失礼だという感覚があって、異質な人を見るとしても非常に控えめである。

これが途上国になると遠慮容赦ないことが多い。たとえばインドネシアやインドで私が現地の女性と一緒に街を歩いていると、今度は私が「動物園の珍しい生き物」並みに注視される。

インドなら、私が歩いている後ろを子供たちがぞろぞろと並んで歩いて「ハーメルンの笛吹き男」のような状態になることも珍しくない。とにかく外国人、すなわち異質な人間は目立つのである。

目立つと一挙一動が注目される。差別や嫌悪の感情があるとかない以前に、動物は「珍しいもの」に注目してしまう本能があるのだ。本能だからとまらない。つい、見てしまう。

そうやって自分が目立つのが「好きでたまらない」という人もいるだろうが、大抵の人は注視されるとリラックスできない。見つめられ続けていると緊張するし、場合によっては嫌悪されるかもしれないし、警戒されるかもしれない。

そういうわけで、多くの人は何とか安心できる場が欲しいと無意識に思う。では、どうすれば安心できる場が得られるのか?

一番簡単なのが、同じ人種が住んでいるコミュニティーに紛れ込むことである。つまり、「同質で固まる」のである。同質の中に入り込めば、目立つ要素が消えるので、注視されることはなくなる。

誰もが無意識にそのような行動をするので、人間社会は自然に分離していく。同質を求めるように誰もが動くと、自然に分離が生まれていく。あたかも水と油のように、くっきりと分かれる。

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現代の人間は、街の中で出会う「異質な人間」に注視する

異質なものに注視してしまうというのは本能だ。原始時代の人間は猛獣に囲まれて暮らしていたが、異質な生き物は自分を殺してしまう恐ろしい生き物かもしれないという恐怖に結びついていた。

生き延びるためには、異質なものが自分に害を与える生き物ではないと分かるまで、じっと見つめて警戒する必要があった。

人間だけでなく、すべての動物は同じ本能がある。異質な生き物と遭遇したら最大限に警戒して、じっと見つめて視線をそらさない。防衛本能が極度に働く。

生き延びるために、「異質を見つめる」というのは本能に刻み込まれたのだ。異質を見つめて、どうでもよいものだったら関心を失うし、危険なものであったら排除が始まる。

では、異質なものが安全か危険か判断できなければ、どうするのか。人は分からないものに恐怖を感じる。だから、判断できるまで注視し続けることになる。

かつて人間は、森の中で出会う動物に注視して見つめてきたが、すでに人間は危険な自然を駆逐して安全な人工エリアを作り出してそこで暮らしている。その代わり、現代の人間は街の中で出会う「異質な人間」に注視して見つめている。

異質の定義はその人によって違う。

違う人種の人間を異質だと感じる人もいれば、外国人を異質だと思う人もいれば、異性を異質だと思う人もいれば、理解できないおかしなファッションの人を異質だと思う人もいる。

分からないと、どのように反応したらいいのか迷う。迷っていると落ち着かない。リラックスできない。だから、どうしても分かる人と一緒にいたいと思うようになり、それが「同質と固まる」という結果になる。

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人間は、よく知らない人間とはリラックスできない

人間が、違う人種を恐れるというのは、歴史的なものも関係しているのかもしれない。知らない民族は、常に侵略者だったからだ。

ジャングルで出会うもっとも危険な生き物は猛獣ではなく人間であるとよく言われる。女性はジャングルどころか、街でも知らない男が危険だと今も感じるだろう。知らない人間はジャングルの野獣も同然なのである。

人類はみんな兄弟ではないし、世界は平和でもない。人間にとって、他者が侵略者だった時代は長かった。

そうすると、人間は自分を守るためにも「同質の人間」と一緒にいるというのは、生きる知恵でもあったのだ。同質の人間であれば、自分が不意に襲われるということはないし、互いによく知っているから相互扶助も生まれるし、一緒にいてもリラックスできる。

人種、宗教、言葉、文化、時代、年齢、階級、出身、職業、性別……。いろんなものが同じであればあるほど、人は相手が理解できる。同質であると判断し、リラックスできる。

人間は、よく知らない人間とはリラックスできない。リラックスできる人間と、リラックスできない人間がいたら、誰でもリラックスできる人間と一緒になりたいという気持ちになるはずだ。

だから、アメリカでも誰もが互いに同質を求め合って、気が付けばいつの間にか同じ人種同士で固まり、同じ階層の人間同士で固まり、似たもの同士がコミュニティーを作り上げる。

しかし、同質からはみ出してどこかに行ってしまう人も、もちろん一定数は存在するのだが、基本的に人間の大部分は同質を求めて同質同士で固まる性質がある。それが国を作り出し、独自の共同体(コミュニティ)を作り出し、独自の文化や伝統を作り出している。

そして、対立もまたそこから生まれていく。

良い悪いとは関係なく、人間社会は同質を求めてどんどん細分化していくのだ。均質になっていくのは自然ではない。自然と人間は細分化されていき、その細分化の中で利害や文化や宗教や伝統や人種や言語や領土の問題で激突を繰り返していくのだ。

今までもそうだったし、これからもそうだろう……。

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