ジュリエット・グレコ。私が愛していたフランスのシャンソン歌手が亡くなった

ジュリエット・グレコ。私が愛していたフランスのシャンソン歌手が亡くなった

私はフランスの売春宿で育って路上から成り上がっていったシャンソン歌手エディット・ピアフにとても恋い焦がれていた時期があった。「愛の讃歌」は美しい歌だ。今でも聞くと身震いする。

彼女の人生を描いた映画もあったのだが、それほどいろんな映画を観たいとは思わなくなった私もこの映画だけは必ず観ると決めたほどエディット・ピアフに惚れていた。(ブラックアジア:エディット・ピアフ。幼少時、娼婦たちと暮らした国民的歌手

私が好きなフランスの歌手は何人かいるのだが、ジュリエット・グレコもまたそのひとりだ。

2020年9月23日。ジュリエット・グレコが亡くなった。93歳だった。

「枯葉」も好きだし、「パリの空の下」も好きだ。ミューズ(女神)と言われるだけあって、ジュリエット・グレコはとても印象的で強烈な印象を残す歌手だ。彼女のステージはいつも簡素で小さなものなのだが、それでも強烈な印象がある。

あの目。あの手。彼女は歌に感情を没入するタイプで、歌いながら見せる仕草がたまらなく素敵だった。私はほとんど白黒時代のジュリエット・グレコの映像しか知らないのだが、白黒の映像で見ると目に入るのは彼女の顔と手のひらだ。

彼女の両手はしばしば彼女の頬を覆う。彼女独特の恍惚の表情の中で、まるで手のひらすらも感情を持っているかのように彼女にまとわりつく。その独特の仕草がとても好きでたまらなかった。

エディット・ピアフとはまた違う個性だった。低い声で、まるで囁くように歌う。心に忍び寄るように染みてくる。

最近はユーチューブで検索したら昔の動画もすぐに見ることができる。たまに書きものに疲れた時、昔の古い歌が聞きたくなる。ジュリエット・グレコもよく見ていた。動画がいつでも観られる分だけあって、昔よりも今の方がずっとジュリエット・グレコは私にとって身近だった。

ジュリエット・グレコ

 パリの空の下

パリの空の下、歌が流れる
その歌は今日、ひとりの少年の胸に生まれた

パリの空の下、恋人たちが歩いていく
彼らの幸せは、その歌に乗って育まれる

ベルシー橋の下、一人の哲学者が座り込んでいる
二人の楽師と幾人かの野次馬、そしてたくさんの人々が

ベルシー橋の下、夜までも歌い続ける
この古い都に惚れ込んだ、人々の賛歌を……

「パリの空の下」を私が初めて聞いたのは、たぶん13歳だとか14歳の頃だったと思う。たぶん、テレビか何かでフランス映画をやっていて、たまたまその中で聞いて「この歌はいいな」と思って記憶に残った。

フランス語は知らないので、歌詞も知らなかったが、改めて歌詞も含めて見てみると、もっと好きになる。

 悲しみよ こんにちは

フランソワーズ・サガンの古い小説『悲しみよ こんにちは』を読んだことがある人や覚えている人は、もういないかもしれない。私はこの小説の存在はずっと知っていたのだが、世界観が違うと思って読むことはなかった。

しかし、実はいろいろあって5年ほど前にこの映画を見たいと思った。映画が見たいというよりも、主演女優のジーン・セバーグが見たかった。(ブラックアジア:悲しみよこんにちは。ジーン・セバーグの転落とその自殺

この映画のことは上記リンクに譲るが、この映画で印象的な歌を歌っているのが、ジュリエット・グレコだった。

「悲しみよ こんにちは」の元になっているエリュアールの詩『直接の生命』とは違うオリジナルの詩がそこにあった。

いっしょに暮らし始めてこのかた
おまえは毎朝やってくる
私に最初の愛撫をしに
悲しみよこんにちは

私に似た女友達
お前は 私が自分の未熟さを映し出して見ることのできる
唯一の鏡
悲しみよこんにちは

ダンスを楽しんでいた映画の主人公はこのジュリエット・グレコの「囁き」を聞いて次第に能面のように無表情になっていき、内省に入っていく。

「悲しみ」とは彼女の女友達であり、自分の未熟さを映し出す鏡……。

ジュリエット・グレコの歌はまるで悪夢のように主人公の心の中を覆い尽くして不安を掻き立てる悪魔となる。ジュリエット・グレコはとても蠱惑的で、しかし恐ろしくも見える。そんなジュリエット・グレコの姿がここにある。

時のさざ波が、彼女の思い出も消していく

シャンソンで「枯葉」と言えば、もはや誰も知らない人がいない筋金入りの名曲である。私もこの歌をとても愛していて、主にイブ・モンタンの歌を何度も何度も聞いている。

しかし、ジュリエット・グレコもまた思い入れたっぷりに、この失恋の詩「枯葉」を歌っている。「枯葉」の何が素晴らしいかというと、そのフランス独特の「詩」だ。

悲しみや、別れや、孤独や、人生の苦みを、フランス人は描写する。その「負の描写」がとても美しい。

悲しみを悲しみとして、孤独を孤独として、それを受け入れて、拒絶せず、むしろ悲しみや孤独を親友のように迎え入れながら味わう。楽しさや喜びも、いつかは悲しみに変わるという現実を抱擁して受け入れる。

「枯葉」は、まさにそうした音楽なのだ。そして、その優れた歌詞を歌うジュリエット・グレコが絶品なのである。

ああ、思い出して欲しい、私たちに友情があった頃を
あの頃、人生はずっと美しく、太陽は今より輝いていた

シャベルで掻き集められた落ち葉が記憶を呼び起こす
シャベルで掻き集められた落ち葉は想い出の苦さに似ている

それはやがて吹く北風に冷たい忘却の夜へと流され
あなたが歌ってくれた歌の記憶を呼び起こす

私たちにお似合いのあの歌
あなたは私を愛し、私はあなたを愛した
二人で共に暮らし、あなたの愛した私がいた

でも人生は愛の暮らしに幕を引き
静かに音もなく時のさざ波は砂に残された
別れた二人の足跡を消していく

でも人生は愛の暮らしに幕を引き
静かに音もなく時のさざ波は砂に残された
別れた二人の足跡を消していく

ジュリエット・グレコが亡くなって時代も変わっていく。古い歌はやがて静かに忘れ去られていき、こうした時代のミューズとなった歌手の記憶をも古い人たちと共に消えていく。

時のさざ波が、彼女の思い出も消していく。
寂しくなる。

ジュリエット・グレコが亡くなって時代も変わっていく。古い歌はやがて静かに忘れ去られていき、こうした時代のミューズとなった歌手の記憶をも古い人たちと共に消えていく。

『突然炎のごとく』『エマニエル夫人』

私はフランスに行ったことがないにも関わらず、フランスの歌手、フランスの女優、フランスの映画、フランスの文学はとても気に入っている。(ブラックアジア:自由奔放な女性の世界。印象に残る4つの古いフランス映画

最も「女性」として好きな女優は実はフランスの女優ではなく、イタリアの女優ソフィア・ローレンだったりする。

ソフィア・ローレンはなかなか死にそうにないしたたかさを持っているし、実際にまだ健在で何よりだ。若い頃のソフィア・ローレンの「顔」がとても好きだ。今でも、ああいうタイプの顔に惹かれる。

しかし、「女優」として印象に残っているのはシルビア・クリステルだったり、ジャンヌ・モローだったり、ベアトリス・ダルだったりする。

女性としてはタイプでも何でもないのだが、映画を見たのがまだ感受性が強い20代だったので、どれも映画と共に「女優」として印象に残っている。

人生に一度だけフランスの女性と関わったこともある。ドラッグでボロボロになっていたフランス人の女性だったが、他の人たちがモンスターでも見るような目つきで彼女を見ていたのだが、私は彼女が嫌いではなかった。(ブラックアジア:コ・サムイ。かつてドラッグとセックスの無法地帯だった島

彼女のこともあるから、以後フランスが好きになったのかというと、そうではなく、私はその前からフランスの文化そのものが気に入っていたように思う。

フランス映画と言えば、『突然炎のごとく』も『エマニエル夫人』もそうだが、恋人関係や夫婦関係を根底からぶち壊しかねない乱脈な性を描いて、昔ながらのしっかりとしたキリスト教的な概念を持った一夫一婦制を信奉する人たちから評判は悪い。

しかし、私自身は売春する女たちといる方が落ち着くタイプなので、フランス文学や映画とは親和性が異常に高い。

当てつけで好きでもない男と結婚した挙げ句、夫の兄弟全員を誘惑する凄まじい悪女をブリジット・バルドーが演じた『素直な悪女』もよく考えて見たらフランス映画だった。(ブラックアジア:「人を好きになるのは病気なの?」恋愛感情は4年で消える

2019年に亡くなったアンナ・カリーナの『女と男のいる舗道』も素晴らしかった。売春の映画だ。(ブラックアジア:アンナ・カリーナの映画『女と男のいる舗道』で1962年の売春の実態が分かる

時代は変わってしまったから

私がフランス文学を好きなのは、ジョルジュ・バタイユの裏小説に惹かれたからだ。サガンは読まなかったが、ジョルジュ・バタイユは好きだった。(ブラックアジア:ジョルジュ・バタイユ。誰の心にもある二面性と倒錯の性

『マダム・エドワルダ』という、ポルノ史上に名をとどめる不朽の「文学」を書いたのも、ジョルジュ・バタイユである。(ブラックアジア:背徳の女神マダム・エドワルダと、メグレ警視の共通点は?

ジョルジュ・バタイユの奇怪な世界観は今も人々をおびき寄せて離さない。ポルノ女優ストーヤもジョルジュ・バタイユに憑かれた。(ブラックアジア:ポルノ女優ストーヤ。膣から眼球を出す「芸術ポルノ」は成功するか?

ジョルジュ・バタイユは執拗なまでに反キリストの思想を明確に出す。エマニエル・アルサンが『エマニエル夫人』で描いたのと同じ反キリストの概念が繰り返し繰り返し出てくる。

そして、反キリストと言えば、人生そのものが「精神異常」と断言された作家マルキ・ド・サドもそうだった。

サドの小説は、ありとあらゆる悪徳が次々と展開する。社会の抑圧に対する怨念、道徳への嫌悪、権威への憎悪が数ページごとに爆発する。繰り返し繰り返し異常性愛が反復されて道徳をめちゃくちゃに壊して勝利する。

中世のキリスト教の道徳観は文化の隅々にまで浸透し、人々を支配し、抑圧し続けてきた。それをぶち壊すためには悪魔(反キリスト)の力を借りるしかなかった。そうした抑圧を破壊する感情がフランス文学にある。それが性道徳の破壊となって花開いたのがフランス文化だったのだ。

こうした文化は女性の生き方にも大きな影響を与えているのだろうか。マダム・クロードは修道院のマナーを売春の世界に持ち込んだ女性だった。(ブラックアジア:マダム・クロード。高級コールガールを生んだ伝説の女性

マルグリット・デュラスは自伝小説『愛人(ラ・マン)』で、メコンデルタにいた少女時代、ベトナム人の金持ちの愛人であったことを小説に記した。この小説は映画になって大ヒットした。

マルグリット・デュラスは映画の主演女優に最後まで「気に入らない」と言って死んでいったが、この映画の主演女優を演じたジェーン・マーチはフランス人ではなくイギリス人だったので、マルグリット・デュラスは怒っていたのかもしれない。

フランスの少女の暗い環境に置かれた怨念は、フランスの少女が演じるべきだと思ったのかもしれない。

何はともあれ、「反キリスト」「破壊と暴力」「性道徳への反旗」は人を破滅に追いやるものである。表側ではなく裏側に堕ちることにある。不幸と破滅と孤独が常について回る。悲しみが待ち受けていて、逃れられない。

そんな中に、エディット・ピアフやジュリエット・グレコのような女性歌手が登場して、悲しみを力強く、優しく歌う。悲しみを人々の心に注ぎ込むように歌う。しかし、もうこうした歌手は現れないのかもしれない。

時代は変わってしまったから……。

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