日本の文化や風土にもともと均質的傾向があった。そのため、工業化の本質は均質化であることを日本人は素早く気付き、均質的であることのメリットを最大限に活かして成功した。そのため高度成長期に入ってからの戦後日本は、まるで当たり前のように、あらゆる面でこの「均質化」を徹底的に推し進めていった。(鈴木傾城)
プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)
作家、アルファブロガー。まぐまぐ大賞2019メディア『マネーボイス賞』1位。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」、投資をテーマにしたブログ「フルインベスト」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。(連絡先:bllackz@gmail.com)
あらゆる面でこの「均質化」を徹底的に推し進めていった
今まで人々を守ってきた「国家」は恒常的な財政赤字で苦しむようになっていき、国民の生活を守るどころか税金を苛烈に取り立てるようになって国民を追い込むようになってきている。
今まで人々を守ってきた「企業」は資本主義の変質で常に利益向上を求められるようになっていき、社員を終身雇用で雇う余裕は消え去ってどんどんリストラに励むようになってきている。
その結果、人々は自分自身の能力で生きなければならない社会になっているのだが、「自分自身で生きる」ためには、他人との差別化が重要になる。すなわち「卓越した個性」「飛び抜けた個性」が求められるようになる。
しかし、日本人は個性を発揮するよりも個性を殺す方が得意な民族である。それは仕方がない面もある。かつての日本は村社会であり、近代の日本は会社社会であり、組織の中で常に「均質」であることが求められていたからだ。
この均質化を強化したのは「工業化」でもある。
日本は戦後まもなく高度成長期に入っていったが、この高度成長期を支えていたのが「工業化」だった。工業化とは何か。工業化とは「同じ物を大量に作る」ということだ。完全に、色も形も重さも一致させた「規格品」を大量に作る。
工業化によって作られた物質は個性があってはならず、完璧なまでに「同じ」である必要があった。
大量生産の中での「個性」とは欠陥なのである。だから色が薄かったり、濃かったり、少し大きかったり小さかったりしてはならなかった。製品は、何もかも同じである必要があった。
こうした均質的な工業製品を作り出すというのは日本人の性格に合った。なぜなら、日本人は昔からほぼ単一民族社会であり、農耕民族であり、村社会だったから、「他と同じである」ことに馴染みがあったからだ。
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そして均質化主義は、人間の均質化にも向かった
日本人が尊ぶ「型」や「作法」や「道」は、実は均質化を芸術的なまでに突きつけたものであると気づいているだろうか。
日本の文化や風土にもともと均質的傾向があった。そのため、工業化の本質は均質化であることを日本人は素早く気付き、均質的であることのメリットを最大限に活かして成功した。
高度成長期に入ってからの戦後日本は、まるで当たり前のように、あらゆる面でこの「均質化」を徹底的に推し進めていった。
「規格化」「大量生産」「標準化」「効率化」とは、要するに同じものを作るための仕組みである。大量生産が重要だった時代、寸分狂いなく同じであることを追求することで儲かった。
均質化は一概に悪いことではなく、効率と合理化のために役立つものである。そして、大量生産できるシステムこそが現代文明を支えている。それは非常に重要なものであるのは誰も否定できるものではない。
しかし、その均質化主義は人間の均質化にも向かったことで歪みが生じた。規格化された工業製品を作るためには、能力や考え方や生き方にバラツキのない「均質化された人間」が大量にいた方が使いやすくていい。
考え方も、気質も、生活リズムも、みんな同じ「均質」である規格化人間が、規格化された製品を作るとうまくいく。だから、日本は均質化された人間を生み出す教育を取り入れた。
日本人は教育によって完全に均質化された。大量生産の中では不良品が許されないように、日本の教育の中では生徒の個性など「あってはならなかった」のだ。
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学校は何かを学びに行く「だけ」の場所ではない
個性的な教育、個性的な教師、個性的な生徒。
こういったものは工業化時代には役に立たないものだった。そんな人間は大量生産を黙々と作れないからだ。日本に必要なのは、大量生産品を作れる規格人間だった。個性よりも均質化された人間を社会は必要としていた。
だから日本国中で同じ教科書が使われ、同じ教育方法が取られ、同じカリキュラムで教育が進められた。生徒の個性を奪うために、子供は制服という同じ色・同じ作り・同じ品質の服を着せられ、場合によっては髪型も同じにさせられた。
同じように行動するために「団体行動」をきちんとできるように徹底教育された。「組み体操」も危険だと言われながら今も続けられているのは、やはり規格化された成果を見せるためでもある。
「組み体操」をする子供たちのひとりひとりは、大量生産品の部品として機能していることの表示だったのだ。
規格化された存在は集団では強い。だから規格化されたメリットは確かにある。しかし、それは集団で見たときの話であって個人で見るとどうなのだろうか。
日本の学校教育は何かを学びに行く場所だと勘違いしている人がいまだにいる。そうではない。日本の学校教育とは「みんなと同じになる」ように矯正される場所でもあったのである。
日本の教育は「みんなと同じにする」ための場所になった。だから、優秀な部分を伸ばすという教育に力を入れることはほとんどない。
そんなことをすれば生徒ひとりひとりが「個性的」になってしまうからだ。個性的というのは「他とは違う」ということで、均質性の人材を求める社会にとっては邪魔者である。
個性を消して人間そのものを規格品のようにするためには、どうすればいいのか。簡単だ。優秀な部分を抑え、不得意科目を補習させて平均に近づければいい。
分かるだろうか。得意を抑え、不得意を平均に近づけ、「同じ人間」になるように徹底的に躾けている。それをを日本では「教育」と呼ぶ。
その規格に馴染まない人間を何というか。「不良」という。なぜ「不良」というのか考えたことがあるだろうか。
規格に合わない製品は「不良品」だ。
教育に合わない人間は「不良」だ。
要するに、大量生産からはみ出した人間は、工業製品の不良品と同列で「不良」と言われているのである。そういった人間は、規格に合わないので、規格品を作るための会社は受け入れない。
地獄のようなインド売春地帯を描写した小説『コルカタ売春地帯』はこちらから
教育を受けて何か得たのではなく失ったのかも……
日本の会社は、規格品を大量生産する場所だ。だから、教育からはみ出した人間は「規格品として合格していない」から雇わないで弾く。
会社は個性は求めていない。だから、日本企業は人材を採用するときには学歴を重視する。学歴が高ければ高いほど「規格品」だと分かるからだ。
よく覚えておいて欲しい。規格化された製品を作るには、個性などない規格化人間が必要になるのだ。工業化社会だったから、そんな人間が大量に必要だったのだ。
そのために教育の現場では、子供たちを規格化するために、制服・平均点・団体行動を重視する教育を推し進め、ありとあらゆる仕掛けで子供たちを没個性化した。これは「型が重要だ」という話や「守・破・離」とは別次元の話だ。
意図的に、可も不可もなく、没個性的で、自分の意見もなく、団体行動だけが得意な人間を教育が生み出したのだ。
言われた通りにしか動けない。言われたことしかできない。自分で考えることはない。マニュアルに沿って動く。考えずに質問してその通り動く。そういう人間を企業が求め、政府はその企業の要請に沿って教育によって子供たちを没個性に仕立てた。
私たちは自分だけは違うと思うかもしれない。自分に個性があることは自分自身が一番よく知っているから、自分が均質化されたとは思わない。
しかし、日本の教育を受けたのであれば、均質化を押し付けられ、得手を封印された犠牲者である可能性がある。教育を受けて何か得たと思っているが、逆だったのかもしれない。奪われたのかもしれない。
あなたは自分が本当の得意だったもの、自分の能力、自分の武器を「均質化を重視する教育」で掻き消された可能性を考えたことがあるだろうか。本当は、自分の個性と可能性を教育で失ったのかもしれない。
とは言っても、ほとんどの日本人はそれを憂うことはないだろう。なぜなら、教育で「個性を奪われた」など想像したこともないからだ。本来は「卓越した個性」「飛び抜けた個性」があったのかもしれないが、それが「矯正された」と想像したこともないからだ。
源義経、織田信長、千利休、古田織部………
個性の抜きん出た彼らでさえ「出る杭」として打たれてしまいました。
日本は中大兄皇子の時代から戦前まで強烈な中央集権国家でした。1300年もつづく価値観を変えるのは大変な作業です。どの時代にもはみ出る個性を持った人はいます。彼等が前例というものを作り、はみ出ても大丈夫なラインを少しずつ広めてくれました。現代は均等化と個性化の過渡期ですね。
国全体が経済成長してる頃は年功序列でも問題ありませんでしたが
今は国内需要が減る一方なので
能力主義や結果主義の会社しか生き残らなくなるでしょう。
今まで経営陣に言われたことしかしてこなかった中高年労働者は苦しむでしょう。
会社に20年以上いたところで外資に買収され、株主から
「お前は会社にどうやって利益をもたらしてくれるのか?」
聞かれても彼らは何も答えられないでしょうから。
均質化、工業化、学校教育の関係は正に鈴木さんが記述されたとおりと思います。
明治に公の義務教育が始まった頃、その目的は「工場労働者」の育成であり、始業休憩終業の鐘の音に合わせて一斉に行動し効率よく働かせるための訓練の場であったと言えます。
そしてそれは国富の増大という至上命題のためには仕方がなかったことであり、国民の平均的な教養の底上げには大いに貢献したので、現在の価値観でそれがダメなものであったと判断する事は現代人の傲りでしかないと思いますが、
問題は、現在の公教育も根本的なところは旧態依然であるのに、中途半端に「個の尊重」だの「多様な価値観」を接木した結果、学校の存在価値がわけのわからんもんになっていることかと。
公教育は強制的・矯正的であって全然構わないので、最低限叩き込むべきことに絞ってカリキュラムを大幅に簡素化し時限数を減らして、子供たちと先生方を学校という収容所から解放すべきです。
義務教育以上の勉強に向いていない子まで全員高校に進学させて、無理に机に向かって座らせても得られるものなど何もないので、他の道を示して本人が選択するのを手助けしてあげる一方、
個性的な私塾の設立を奨励して、学習意欲のある子はそちらでそれぞれの意欲に応じて勉強するようにすればよいのです。
現在の悶撫省(仮名)及び狂育委員会制度の存在は、これからの日本の教育にとってはもはや害毒でしかないので解体すべきです。日狂組(仮名)も悶撫省(仮名)と対立してきたように見せかけていますが、奴らは根っこのところが同じ(どちらも先の大戦後の設立における目的は一緒)ですので同じく害毒でしかない。
私は、公教育に見切りをつけて退職した先生方に期待を寄せています。彼らが、現在まさに公教育の現場で苦しんでいる先生方と連携して一揆を起こしてくださることを期待します。共に頑張りましょう。
前段、oyr氏にまったく賛成します。たとえば文字(自国語の)の読み書き、派生で基礎の基礎英語、➕➖➗✖️の計算、派生で按分計算(これ実生活で結構使います、鶴亀算も)、あと地理。これを必修として「クラス」だの「組」だの突外して、ひとつの学内で大学のように横断的に教師の選択を可能とする。無能な師には生徒がつかないでしょう。勿論、容易く単位をくれるという理由で人気となる師もあるでしょうがそれはある程度小狡くなったもののすること。基礎の基礎であればこそ、おおかたの子供らは「学ぶおもしろさ」や「先に続く奥深さ」を伝えうる師を本能のように見極めると私は思います。
それに、組やクラスに囲われず、横断的に必修を選択できれば、ここより他に居場所なしの監獄と化した組、クラスの中で学びには関係ない関係で思い悩む子らも「あいつらのいないコマを選択」ができます。
このシステムで問われるのは教える者の質と能。今のシステムは子供らをモノのように見なし教える側の利便性と効率にかたよっています。
あ、歴史ぬけてた(笑)
auroreさんにご賛同いただいたので調子こいてもうひとつ。
昔の若者の身の振り方に、住み込みで働く「書生」とか「女中」がありましたね。主人の身の回りの世話をしたり、外回りのお供をしたり。衣食住は保証されているが決まった給金はなく時折お小遣いをもらう程度みたいな。
本人に才能とやる気があって主人にそれを育てる度量があれば、社会人としての実地訓練として機能し、それもまた教育の一つの形態かと思います。
「そんなの奴隷じゃないか!」とおっしゃる方々には、では現在リッパなカイシャインという身分で働いている人々のうち、かなりの割合で奴隷以下の労働条件と人権蹂躙に苛まれている人たちがいることについてはどうお考えですか?とお聞きしたい。
書生さんと女中さん、現在の日本の状況ならばそれなりにいい勤め先だと思うんですけどね。奨学金返済という負債を背負ったりブラック企業に勤めるよりずっとマシなんじゃないでしょうか。