
「自分がどこまでのダウングレードなら心理的に耐えられるのか」を知らずにいると、現実がそれを超えた瞬間、耐久力が尽きる。だから、したたかに生き延びるためにも、まずは自分自身の最低ラインを把握しておく必要がある。それを知っておけば、何かあったときに適応力が高まる。(鈴木傾城)

プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)
作家、アルファブロガー。著書は『ボトム・オブ・ジャパン』など多数。経済分野を取りあげたブログ「フルインベスト」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」を運営、2019、2020、2022年、マネーボイス賞1位。連絡先 : bllackz@gmail.com
自分はどこまで落ちても耐えられるのか
日本の労働者人口の4割近くが非正規雇用者である。
非正規雇用者は2024年のデータでは2126万人もいる。彼らは「景気の調整弁」なので、景気が悪くなれば真っ先に切られる。都合よく切り捨てることができるように作られたのが非正規雇用なのだから、当然の動きでもある。
彼らは賃金も上がらない。そのため、彼らはインフレに対しては脆弱だ。インフレは生活必需品の価格を押し上げ、彼らの日常から余裕を奪う。昨今のインフレは、加速度的に彼らを働いても豊かになれないワーキング・プアの状況に追いやっていく。
貧しさは静かに、しかし確実にこの国をむしばんでいく。
日本は高齢化社会だが、年金で暮らしている高齢者もまた追い込まれる。貧困はもはや一部の層だけの問題ではなく、社会全体にじわじわと浸食する疫病のように広がっているのだ。
すでに低所得層や年金生活者の多くは、経済的サバイバルを強いられる生活をしている。否が応でもダウングレードを強いられてしまう。食事も質や量が減ってしまうことになる。小さなおにぎりひとつで飢えをしのいでいる人も多い。
だが、そうなっても人間は死なない。経済的に落ちるところまで落ちても、自殺しない限りは「しかたなく」でも生き続けることになる。
だが、誰でも「ここまで落ちたくない」と思うレベルがある。自分にとっては、それがいったいどこまでなのかというのを私はよく考える。
人の忍耐力には「限度」がある。どこまでの社会環境の悪化が自分の限界なのかは、人によってそれぞれまったく違う。実は、それを前もって知っておくのは、もしかしたら非常に重要なのではないかと思っている。
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自分は、どこまでの貧困が心理的に限界なのか
生まれた環境、時代、場所、そして性格や気質によって、「ここまで落ちたら心理的に耐えられない」という範囲が違っている。
昭和20年。日本が敗戦を迎えたとき、国土は空襲によって灰燼と化していた。日本はそこから立ち上がるのだが、昭和30年頃までは日本は再建の途上であり、人々の暮らしもそれほど豊かであるとも言えなかった。
だから現在の50代以上の人は、今でも下町の長屋暮らしの頃を覚えている人もいるはずだ。あるいは昭和の下町の光景を振り返ることができる人も多いはずだ。(ブラックアジア:1966年。東京の日常。日本は変わり果てたか、それとも変わっていないのか?)
そういう時代をまだ覚えている人もいる。だから、郷愁に駆られて「そこまでの貧困なら、逆に戻ってもいい」と思う人もいるかもしれない。
私自身はバブル世代で昭和30年、40年の、まだ貧困があちこちにあった世界はあまり覚えていない。だが、東南アジアの劣悪なスラムや、インドの荒んだスラムにぶらぶらしていたので、あのレベルまでの極貧をよく知っている。
そのため、自分がすべてを失って、あのあたりまで転がり落ちたとしても精神的に崩壊しないで普通に生きていけるという自負もある。そういう世界を知っているので、ある意味、貧困の世界には適応力がある。
だが、高度成長期以降に生まれ、環境の良い、清潔で、プライバシーも整った個室暮らしをした人たちは、そんな昭和の貧しかった頃の環境は耐えられないし、そこまで落ちたくないと考えるかもしれない。
人によって、そのあたりの感覚はまったく違っていて、それぞれ「自分の心理的な限界はここまで」という最低レベルは違っている。

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インド最底辺の売春地帯に沈没していた私は、ある日ひとりの女と出会った。彼女は「人を殺した」という噂があった。
むしろ「ざまを見ろ」という気持ちに
高いところから転がり落ちてしまった人と、最初から貧困の中で生きていた人では、当然ながら社会が大混乱した時の精神的なダメージや耐久性は違っている。
最初から生活に困窮し、貧乏に暮らしていた人は、時代がどう変わろうが最初から何も持たないので自分の環境は何も変わらない。そのため、全世界の経済が阿鼻叫喚の地獄に落ちようが、極度な景気後退がやってこようが関係ない。
何も持たない人は、しばしば「無敵の人」と称される。
「無敵の人」はもともと何も持たなかったのだ。そのため、社会がどのように変わろうとたいして大きな影響がない。まわりがまとめて困窮したら、まわりが自分の環境と同じになるわけで、むしろ「ざまを見ろ」という清々しい気持ちにもなることもあるかもしれない。
つまり、最初から何も持たなかった「無敵の人」は、社会が大混乱しているときがもっとも立場が強い。社会が好調でも絶不調でも自分自身は常に困窮している。そのため、世の中が絶不調になれば逆に自分の世界になっていく。
問題は、社会の大混乱によって今の生活が維持できなくなってしまう人たちである。安定した給料がもらえる仕事を失ったり、貯金を失ったり、マイホームを失ってしまうことになる人たちがもっとも大きな精神的ダメージを受ける。
不景気はいつでもやってくる。そして不景気によって勤め先が甚大な損失をこうむると、リストラ・無給休業・倒産などの悲劇が次々と襲いかかる。
背伸びして住宅ローンを組んでいた人たちは、仕事を失ってしまうと、貯金を急激に失う上に、下手したらマイホームも失うかもしれないような状況に直面する。まさにすべてを失って路頭に迷うのだ。
そうなると、すさまじい精神的ダメージを負うことになるだろう。それは耐え難いことであるに違いない。
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町田・青線地帯にいた台湾やタイの女たちは、どのような境遇の女たちだったのか……。知られざる日本の売春地帯にいた “異国の女たち” の世界を鈴木傾城が描く。
なぜ限界を知ることが重要なのか
社会が不況に向かい、生活環境が悪化すると、人は否応なくダウングレードを強制される。物価の上昇、実質賃金の低下、税負担の増加、社会保障の縮小といった複合的な圧力が重なれば、これまで当たり前だった生活水準が維持できなくなる。
個人の努力では抗いようのない外部環境の変化によって、人は「どこまで落ちても耐えられるのか」という現実と向き合わされるのだ。だからこそ、自分の限界を事前に把握しておくことが極めて重要になる。
限界を知らないまま生きていると、人は突然の変化にダメージを食らう。安定した生活をしていたのに、不意に不況や解雇に巻き込まれて無理やり下に叩き落されたら、精神は一気に崩壊へ追い込まれる。
「自分がどこまでの生活レベルなら心理的に耐えられるのか」を知らずにいると、現実がそれを超えた瞬間、耐久力が尽きる。だから、したたかに生き延びるためにも、まずは自分自身の最低ラインを把握しておくのは役に立つ。
限界を知るのは「自己崩壊を予防する」という意味でも重要なのだ。
限界を把握していれば、ダウングレードへの調整を早期に始めることができる。生活水準を段階的に下げ、支出構造を変えて生き延びることがすぐにできる。最初から、どのレベルなら精神的に問題なく生きられるのかを知っておくことで、いざ本格的な経済悪化が訪れても適応が容易になる。
自分の限界を知ることは、悪い話ではない。社会状況が悪化した際の「不必要な絶望」を避ける上でも役に立つ。限界を知るという行為は、絶望ではなく、むしろ防衛として機能するのだ。
限界を知ることの本質は「備える」ことであり、「適応力を高める」ことである。限界を把握していれば、どれほどの環境変動があっても、自分が耐えられる範囲で軌道修正できる。
日本は国力が低下していく一方なので、今後は悲惨な社会的変動がやってくるのは間違いない。私はそれを確信している。だが、社会がどれだけ悪化しようとも、適応できる者は生き残る。最初から自分の「適応範囲」を知っていれば、何があっても柔軟に対応し生き残れる。







コメント
本当にこれは大切なことだと思います。
私は職場で常々ネガティブ発言をしてよくないと上司・同僚から文句を言われています。
しかしポジティブな発言ばかりで何かいいことがあるのか?それによってトラブルとかを防ぐことが出要るのか?
希望的観測ばかり並べて自分たちに都合の良いことばかり想定して何の意味があるのか?
むしろ嫌ではあるが最悪の状況を想定してネガティブ発言をすること、そしてそれに対して対処できるようにするのが大切だと思っています。
そういった意味で自分の限界を知っておくのは大事なのに、世の中の大半のひとはそれをしない。
自分が思っている以上に最悪の事態・悪い奴はたくさんいるのだから。