
亡くなってしまった配偶者、パートナー、父親、母親、懐かしい友だち……。みんな、あっちの世界で自分を待ってくれていると思ったら、死の恐怖が和らいで安らかになる。「天国はある」「先に逝った人が向こうで待っている」という考えは、人々の「救い」になるのだ。(鈴木傾城)
プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)
作家、アルファブロガー。著書は『ボトム・オブ・ジャパン』など多数。政治・経済分野を取りあげたブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」を運営、2019、2020、2022年、マネーボイス賞1位。 連絡先 : bllackz@gmail.com
死の恐怖に打ち勝つために人はいろいろ考える?
私は、死んだらもうそれっきりで何もないと思っている。
意識は残らない。熟睡したときに意識がないのと同じように、すべて何もなくなると考えている。 間違えても、天国があるとか、地獄あるとか、異世界があって転生するとか、そんなふうに思わない。
月になるとか、星になるとか、流れ星になるとか、空から見守っているとか、そういうこともまったく思わない。死んだら、間違いなくそれで終わりだ。肉体が死んだら生物はそこで存在が完全消滅する。
子供の頃から、私はそういうふうに思っていた。今でもこの考え方にはまったく揺らぎがない。
しかし、そういう話をするとふだんは宗教心の欠片《かけら》もないような人が、いきなり「天国はある」とか言い出すこともある。夢見る10代や20代ならばともかく、空想癖なんかとっくに失ったはずの中高年さえ、そのような子供じみたことを言う。
私にとって天国など滑稽な妄想でしかない。しかし、最近になって私はそれを否定するのは、彼らを不幸にすることかもしれないと思うようになっている。彼らはそれを必要としている。
それを私が「そんなものはない」と言うのは、彼らから希望を奪ってしまう残酷な行為なのだと思い至った。
「人はどうして天国があるとか死後の世界があるとか考えてしまうのかと言うと、死の恐怖と必死で戦っているから……」
私はそのように思い至ったので、恐怖と戦っている人の武器を奪うのは良くないと、彼らの死生観を否定するのはやめることにした。
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「天国」も死の恐怖を和らげるためのひとつの設定
死ぬと言うのは誰にとっても本当に恐ろしいことなのだと思う。だから、病気や老衰などで本当に死が近づいてきたとき、あるいは死を考えはじめたとき、死の恐怖に打ち勝つために人はいろいろ考える。
「天国」も、死の恐怖を和らげるためのひとつの設定なのだ。
「天国」の言い方や概念は微妙に違っても、どこの国でもどこの宗教も似たような概念がある。「極楽」だとか「浄土」だとか、そのようなものだ。これらはすべて死の恐怖と不安を和らげる「設定」である。
そういう世界が「存在する」ことにして、そこに先に逝った自分の懐かしい人が待っているという設定にする。
その考え方で救われるのだ。
亡くなってしまった配偶者、パートナー、父親、母親、懐かしい友だち、懐かしい俳優、自分の飼っていた愛するペット……。みんな、あっちの世界で自分を待ってくれていると思ったら、死の恐怖が和らいで安らかになる。
長らく一緒に暮らしてきた老夫婦が片割れを亡くすとき「先に行って待ってて。私もすぐに後を追うから」と声をかける。天国があって、あっちの世界とこっちの世界が連続していると思うことで、逝くほうも恐怖が和らぐ。そして、看取るほうも悲しみが和らぐ。
「待ってるよ」「待っててね」と言える。
それを信じることができると、残された側も早く懐かしい人たちに会いに行きたいとさえ思う。だからこそ、「天国はある」「先に逝った人が向こうで待っている」という考えは、人々の「救い」になるのだ。
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悲しみを和らげる「解決策」を提示する必要があった
いよいよ死に近づいてきたとき、自分ひとりが「この世」から消えてしまうと思うと心細いかもしれない。しかし、自分の知っている親しかった人たちのいる「あの世」に行くと考えると心強くなる。
「私を待ってる人がいる」と思うことによって、少し死が怖くなくなる。
多くの宗教がそうした概念を持っているのは、要するに宗教は「死の不安や恐怖を柔らげるための方法が求められていた」ことに他ならない。すべての人は生老病死に逆らえない。金持ちであっても、その生物のサイクルから逃れられない。
そして、人々は自分が死ぬことの不安や恐怖と戦うだけでなく、自分の愛する人や親しい人が亡くなった悲しみとも戦わなければならないのだ。人だけではない。かわいがっていた小動物の死も精神的に大きなダメージを与える。
宗教は人々の心を救済するための役割を担っているのだから、死の恐怖や親しい人を失った悲しみを和らげる「解決策」を提示する必要があった。それが、天国だったり、極楽だったり、浄土だったりしたのだ。
みんなで「それがあること」にして、一緒にそれを信じる。要するにみんなで一緒に自らを洗脳する。そうすることによって、「自分の死の不安や恐怖が和らぐ」「親しい人を亡くした強い悲しみを和らげる」ことができるようになった。
「天国で見守ってくれる」「星になって空から見つめてくれている」と言う人もいる。これは愛する人は死んでいなくなったが、「まだ死んでおらず形を変えて存在している」という錯覚を自らにかけるものだ。
そうすることによって、死んだ人とまだ一緒にいる気持ちでいられて、心の安心感が得られる。失ったという現実を、錯覚で和らげる。
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死を恐れる人類が生み出した最強のソリューション
幽霊だとか、霊魂だとか、ゴーストだとか、その類いも実は「死んだ人が死んでいない」と自分を納得させるための妄想であるとも言える。
今はそうした存在は娯楽なのだが、その目的は「死んでも死んでいないこともある」という錯覚を強化させることだ。
それは、ありもしない空想なのだが、それを宗教や小説や映画などが「さも真実のように」語ることによって、社会全体が存在を肯定するような空気になる。そして、人々に錯覚を真実のように思わせるようになる。
この社会全体が仕掛けた空気感によって、実際には誰かが死んで存在が完全に抹消しているはずなのに、「そうでない」と思えるようになるのだ。つまり、妄想が社会的認知されるのだ。
天国や極楽浄土、霊魂やゴースト。これらは、すべて死んだ存在を死んでいないと思わせるための「仕掛け」だ。
そんな仕掛けを必要とするほど人は、死んで消えたくないと思っている。死を否定して「死んでも死んでない」ように思いたい。こうした妄想を真実だと思わせるのは、ある意味「死を恐れる人類が生み出した最強のソリューション」とも言える。
人々は必死で死の不安や恐怖と戦っている。だから、それは必要だった。
そうであるならば、そうした妄想を妄想だと指摘するのではなく、信じている人をそっと見守るのが「大人」なのだろう。そこに気づいたとき、私はむやみに彼らの「想い」を否定しようとは思わなくなった。
私以外の人が天国だとかあの世での邂逅《かいこう》などを信じて、それを信じることで気持ちが楽になるのであれば、それはそれでそっとして上げるのが優しさだと思いつつある。私もやっと大人になれたということなのだろうか……。



