◆乞食の子。「乞食の子」として生まれるとはどういうことか

◆乞食の子。「乞食の子」として生まれるとはどういうことか

先日、ふと埋もれた本棚の奥の奥にあった一冊の本をまた手にした。『乞食の子』という書籍だ。

この本は、以前、ブラックアジアに紹介したことがあったが、調べてみると、ちょうど10年前に紹介したものだった。改めて紹介したい。

この本はすでに絶版になっているので中古書籍を買うしかないが、壮絶な貧困の暮らしを知りたい人は、読んでみても無駄ではないと思う。

妻の寝顔を哀しそうな顔でじっと見つめる夫

ある眠れない夜。午前4時にプノンペンの街をモトバイクでぐるぐると廻っていたことがあった。

オレンジ色の街灯の陰の下で、家もない家族が路上で固まって寝ている姿を見かけた。母親は赤ん坊を抱えて寝ているのだった。

プノンペンではいまだカンボジア人の母子が物乞いをしている姿が街にある。

母親は力のない表情をして呆けたように立ち、そばにいた子供が必死になって通りすがりの人々に金を無心している。

そしてそれから3ヶ月後、タイに移動してから、私はバンコクのソイ3を北上する道で路上生活をしている夫婦を見た。

ビニールの枕を奥さんのために作って上げ、その寝顔を哀しそうな顔でじっと見つめる夫の表情に、私は言い知れぬ衝撃を覚えた。

自分の妻を路上に寝かしつけるしかない夫の苦悩はどれほどのものなのか考えると、とてもつらい。

貧しい人々の更に下層に位置する「路上生活者」の悲惨さは恐らく想像以上のものだろう。

人々に嘲笑され、飢えて気力を失い、ごみ箱を漁って人間としての尊厳も奪い取られて行く。それでも生きなければならないのである。

乞食の子(著:頼 東進(訳:納村 公子)』という書籍は、台湾人の著者が「乞食の子」として生まれるとはどういうことかを、自らの体験を通して語っている貴重な書籍である。

虫くらい食べられなくて人間か

この本では、私たちが過酷だと思う以上の過酷な現実が詳細に描写されている。

舞台は台湾であるが、貧しさに国境はない。私はこの本を読みながら、涙を止めることができなかった。

カンボジアやインドネシアの辺境で私たちが出会う人たちは、貧しい境遇にある人ばかりだ。

そんな「貧しさ」も恐らく『乞食の子』の著者やその姉と似たようなレベルであったに違いない。

著者の頼東進氏は、盲目の父と重度の知的障害者の母親と弟、そして姉や妹弟たちと共に物乞いの生活を繰り返していた。

冷えた残飯、腐った残飯を家族で漁り、ノミやシラミにたかられ、用水路の水を飲んで生きていたのである。

重度の知的障害者の母や弟が漏らす大便の世話や、母親の月経で汚れた布を洗い、幼い妹の夭折に慟哭し、飢えに泣き叫ぶ妹弟のために嵐の中を物乞いに行った。

ニワトリの死骸を拾って家族で食べ、父親は塩漬けにしてあった肉に虫がたかっているのをそのまま食べて、こう言ったことが書かれてある。

「虫を食べても死なん。虫くらい食べられなくて人間か」

そんな東進氏は学校へ行けるようになった。なぜ、そんなことができたのか。

「姉は、私たち家族の生活のために、私が学校に通えるようにするために、父の手で女郎屋に売られてしまったのだった」

東進氏は、自らの身を犠牲にして苦界に沈んだ姉に応えるために、乞食をしながらも猛烈な勉強を自らに強いて、6年間も学校の成績はトップで走り続けた。この凄まじい記録に涙しない人はいないだろう。

これ以上の苦しみがあるのか

この東進氏が「いちばん傷ついたこと」として挙げているのは何だろう。

それは、女郎屋に売られた姉を買った男たちが笑いながら「よかったんだってな」と話す会話を偶然聞いたときのことだという。

「おねえちゃん、おねえちゃん。貧しい家のために体を売り、お金のある人間にこんなふうに踏みつけられている。これ以上の恥辱があるのか。これ以上の苦しみがあるのか」

地面に突っ伏して、大地を叩きながら大泣きしたその時の東進氏の心を慮ると、涙を流さない人はいないだろう。

「貧しい」とはどういうことか、流浪する人々がそこから這い上がるのは如何に苦しいことなのか、そして売春宿の娘たちはどのようにして堕ちていったのか。

頼東進氏の『乞食の子』には、それらが細かく丁寧に綴られている。

1990年のバブル崩壊から20年を過ぎた。日本にもバラ色の将来があると思い込んでいる人たちがいたことを知らない若者も増えた。

そして、日本は今までよりもさらに没落と貧困に落ちていこうとしている。

私がアジアで見てきた貧困の数々は、日本の将来の姿であることが徐々に明らかになっていこうとしている。

貧困は過去の話ではなく、未来の話になっていく。

頼東進氏の堕ちていた貧困はとても極限的であって、いくら日本が没落していったとしても、そこまでひどい状況にはならないかもしれない。

しかし、社会が柔軟性を失って、一定数の貧困層を見捨ててしまったとき、そこに現れるのは「何のために生まれてきてしまったのだろう」という絶望だ。

いずれ、ブラックアジア第一部から第四部で取り上げた内容は、「日本の未来」になる可能性もある。

ブラックアジアを書きながら、「これは日本の将来になる可能性がある」と指摘したのは第四部を書いたときだった。

悪い予感は、当たりつつある。

このあたりについては、さらに掘り下げて考えていきたいが、頼東進氏の『乞食の子』も忘れないで欲しい。

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