まだ二十歳《はたち》くらいの時、私自身はごく普通の感覚を持った青年であったと自分では思っている。女性の好みもそうだった。明るく、楽しく、美しい女性が好きだった。
当時は、誰もが好きになるタイプの女性を私も好きになった。世間の男たちの好みと、私の好みは合致していた。私も誰もが好む画一的な「美人で華やかで明るい女性」が好きだったのだ。
女性の魅力はそこにあるのだから、それを外したら女性を追い求める意味がないとも考えたりした。
しかし、東南アジアの夜の女たちと付き合うようになり、そこで来る日も来る日も「美人で華やかで明るい女性」と出会い続け、そうした女性とばかり付き合い続けた結果、私は何となく違和感を持つようになっていった。
東南アジアのゴーゴーバーでは、確かに弾けるような若さと明るい笑みを持った女性が圧倒的に好まれる。
私は「こんなに美人で、かわいくて、明るい女性と一緒の時間を過ごせたら楽しいだろう、幸せだろう」などと思いながら彼女たちを必死で追い求めた。彼女たちに振り向いてもらいたいと願った。
しかし、見渡せば売春地帯(シン・シティ=Sin City)は多様性の宝庫だった。
美人で、明るくて、華やかな女性だけでなく、「信じられないくらい優しい女性」もいたし、「華やかではないけれども印象的な女性」もたくさんいた。「素朴で雰囲気のある女性」もいたし、世間が求めるものとは違う奇妙な個性を持った「エキセントリックな女性」も大勢いた。
私はこうした女性たちとも多く付き合って、いろんなことを一晩語り明かしたり、楽しく食事したり、彼女の優しさに触れたり、新たな個性を発見したりした。みんな素敵な女性だった。
堕落の街《シン・シティ》での付き合いはほんの一日、長くても数日くらいで終わりだ。しかし、画一化とは外れたところで、忘れられない女性が多かった。そんな女性たちの想い出が心の中で積み重なっていった。