
日本はこれからも豊かさを維持できるのだろうか……。少子高齢化の弊害によって社会が硬直化し、イノベーションが消え、人々は社会変革を拒み、若者は結婚できず、実質賃金は30年ほとんど上昇せず、国力が目に見えて低下してく中で、日本は今まで通りの経済力と国際的影響力を保持できるだろうか。(鈴木傾城)
プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)
作家、アルファブロガー。まぐまぐ大賞2019メディア『マネーボイス賞』1位。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」、投資をテーマにしたブログ「フルインベスト」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。(連絡先:bllackz@gmail.com)
高齢者、障害者、ストリート・チルドレン
途上国に行けば日本の福祉がいかに恵まれているのかが分かる。高齢層は基礎年金(国民年金)と厚生年金の二階建てで守られていて生活が保証されているし、高齢者の生活を守るデイケアも発達している。医療も素晴らしい。
だからこそ日本は世界でも有数の長寿国家であるし、多くの高齢者が慎ましく暮らしていける。
途上国になればなるほど年金は乏しく行政は機能せず、高齢層が放置状態となっている。放置されるのは高齢者だけではない。ストリートで物乞いをしている子供たちや障害者も多い。彼らも放置されているということだ。
今、日本でストリート・チルドレンを見たことのある人はいるだろうか。いないはずだ。真夜中に路上で寝ているホームレスの子供たちの姿は日本にはない。あるいは、路上で見捨てられたような格好で放置されている障害者の姿はない。
しかし、日本で見ないから世界も存在していないわけではない。逆だ。日本を一歩出ると、見捨てられた高齢者、障害者、子供たちが大勢いる。私はインド・ムンバイのスラムにいた時、毎日のように彼らに囲まれてきた。
私だけではない。途上国を訪れた人は、すべてが目にしているはずだ。
物乞いをする子供たち、手や足のない人、下半身がない人たち、小児麻痺の人たち、全身がイボで覆われている人、眼球がなくて眼窩が空洞になっている人、そして大火傷を負って容姿が崩れてしまった人……。
もし、途上国に行ったのに、そんな人は見たことがないというのであれば、それは「外国」に行ったのではなくて「観光地」に行ったということだ。
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社会に見捨てられた弱者がどん底にいる
途上国では、いったいなぜこれほどまで大勢の障害者を見かけるのか。別に不思議なことではない。彼らは国から何の支援も受けることができず、障害者であっても「自分の食い扶持は自分で稼ぐ」しかないからである。
「自分で稼ぐ」と言っても、誰かが雇ってくれるわけではない。障害者雇用促進法みたいなものはない。あるのかもしれないが、機能していない。そもそも、健常者ですらも仕事を見つけるのに一苦労しているのに、障害者は圧倒的に不利だ。
だから、彼らはストリートに出て、自分の障害を見せて施し(バクシーシ)を手に入れる。
インド圏だけではない。東南アジアでもそうだ。今でも東南アジアでは、道に座り込んで障害を見せながら人々の施しを求めている人たちを見る。かつてに比べて最近はそうした人たちの姿はかなり減ったように思う。それでも皆無ではない。
アフリカでも、中東でも、南米でも途上国では恐らくどこも状況は変わらない。
日本でも戦後の混乱期である1945年から10年近くはまだ福祉が整っていなかったので、孤児(みなしご)が街をうろついたり、傷痍軍人が道に座って物乞いする姿があった。
当時の孤児は「親が離婚した」とか「親に捨てられた」というものではない。親は戦争で死んだ、空襲で自分だけ生き残った、という壮絶な境遇だったのだ。社会も助ける余裕がなかった。だから彼らは孤児同士で集まり、駅でたむろし、盗んだり、拾ったり、物乞いしたりして生きていた。
戦争や空襲で傷ついて障害を抱えた人も多かった。身体を動かせる障害者は、靴磨きをして自分の食い扶持を稼いだ。戦後まもない日本はそういう姿だったのだ。福祉が整っていない状態だった。
日本はそういう環境を乗り越えて福祉国家となったが、途上国ではそうではない。だから、今も社会に見捨てられた弱者がどん底(ボトム)で這い回るようにして生きている。
1999年のカンボジアの売春地帯では何があったのか。実話を元に組み立てた小説、電子書籍『スワイパー1999』はこちらから
人間らしい暮らしができる国
それを考えると、今の日本はとても恵まれている。重度の障害者は国から障害者年金がもらえて、必要最小限の生活を保障してもらえる。仮に孤児がいたとしても、国がきちんと児童保護施設で生命を守る。
高齢者も働けなくなっても路頭に迷わないように年金でしっかりと保護され、家族も生活支援センターも高齢者を見守る。
もちろん、細かい部分を見ると取りこぼしがあったりするかもしれない。あるいは当事者から見ると、まだまだ改善の余地があると思うかもしれない。
しかし、「今のところ」だが、日本は生きる権利が非常に高度に保障されていて、人間らしい暮らしができる国であるというのは確かだ。
日本は常にそうではなかった。ドキュメンタリーで戦後間もない日本、1945年から1955年あたりのボロボロの日本を見てみればいい。私たちの国「日本」はいかに成長し、いかに蘇り、いかに豊かになったのか分かるはずだ。
日本の高度成長は「奇跡」とも言われていたのだが、まさに国民が一丸となって働き、いくつもの幸運も重なって、高度経済成長と呼ばれる奇跡が生み出された。
日本の高度成長は1970年代の石油ショックで終わったが、日本の豊かさはそれからも継続し、1980年代後半にはバブル景気を迎えることになる。土地はどこまでも上昇し、株価もうなぎ上りに上がり、若者は踊り狂い、日本人はタガが外れた。
それが頂点だった。
1990年代以後は、バブル崩壊を経て日本は徐々に活力を失っていくことになった。2020年に入った今も、先進国としての豊かさの残滓は残っていて、今も日本人はそれなりに豊かな環境を享受している。
高齢者も、障害者も、貧困の子供たちも、行政が守ってくれている。途上国のように路上に放り出されるような状況になっていない。しかし、弱者は永遠に守られ続けるのだろうか。
インドの貧困層の女性たちを扱った『絶対貧困の光景 夢見ることを許されない女たち』の復刻版はこちらから
日本だけは豊かさが永久不滅であるのか?
日本はこれからも豊かさを維持できるのだろうか……。
少子高齢化の弊害によって社会が硬直化し、イノベーションが消え、人々は社会変革を拒み、若者は結婚できず、実質賃金は30年ほとんど上昇せず、国力が目に見えて低下してく中で、日本は今まで通りの経済力と国際的影響力を保持できるだろうか。
歴史を見ると、どんな国であっても永遠に強大であり続けることはできないという事実を私たちは見ることができる。
すべての道はローマに通じるはずだったローマ帝国も滅びた。中南米のほとんどの領有を所有したスペイン帝国も滅びた。7つの海を支配して日が沈まない国だった大英帝国も小さな小さな島国に戻った。
日本はどうなのか。政治家も経営者も小粒になり、大企業の経営者はサラリーマン化し、国民は自国のあり方に無関心になり、それぞれがバラバラになり日本はまとまりを欠いた国と化した。
日本民族を亡国に導く国家的な問題は「少子高齢化」だ。高齢者が増えて子供が減るというのは、日本が萎縮するということであり、日本には未来がなくなるということでもある。
ところが、この少子高齢化に対する危機感も政治家にも国民にもない。日本は自滅の道にひた走っているとも言える。それなのに、日本だけは豊かさが永久不滅であるというのは、単なる現実逃避に過ぎない。
はっきり言う。今のままで行くと、日本は国としての豊かさを維持することができなくなっていく。少しずつ、ゆっくりと貧困に落ちていく人たちが増える。それはいつしか莫大な人数になって「貧困層」として現れる。
そして、貧困層があまりにも増えたり、国や行政が彼らの面倒を見る能力がなくなったりしていくと、やがて日本にも過去に消えたはずの光景が現れてくるようになるはずだ。弱者が放置される光景である。
高齢者が放置され、障害者が放置され、貧しい子供たちが放置される光景だ。「まさか、日本にそんな光景が現れるはずがない」と思うだろうか。
これからは言われたことしかしてこなかった大企業の
中高年労働者が解雇され
困窮化していくでしょう。
これから企業が必要とするのはヨイショばかりする奴でなく利益をもたらしてくれる人材です。
もう日本は右肩成長の時代でなくなったと気付いていない者がいまだに多数見受けられます。
投資で稼ぐほうが労働で稼ぐより
圧倒的に有利だと気付いたときには完全に手遅れなんですがね。