シェアハウスはあってもいいが、そのスタイルは自然ではないと強く感じる

シェアハウスはあってもいいが、そのスタイルは自然ではないと強く感じる

どんなに貧困に堕ちたとしても、私が絶対に選択しないのはシェアハウスだ。国土交通省はシェアハウス(貸しルーム)をこのように定義している。

『プライベートなスペースを持ちつつも、他人とトイレ、シャワールーム等の空間を共用しながら住まう賃貸物件で、入居者一人ひとりが運営事業者と個室あるいはベッド単位で契約を結ぶもの』

シェアハウス市場調査2013年版を見ると、シェアハウスは全国に約3000軒ほどあるのだが、その約75%は東京に集中している。その数は2057軒である。次に神奈川県、次に埼玉県となっているので、圧倒的に首都圏にあることが分かっている。

2018年は正確な数字が出ていないが、首都圏に偏重しているという傾向はまったく変わっていないはずだ。

なぜ、それが断言できるのかというと「シェアハウスが選ばれるのは家賃が高すぎて普通のマンションを借りられないから」という事情があるからだ。地方はそうではないが、首都圏はまさにそうなのである。

首都圏は日本全国から莫大な人々を集めている。そのため家賃は高止まりしている。しかし仕事は非正規雇用などで不安定かしており、高い家賃が支払えない若者も莫大に存在する。(鈴木傾城)


プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)

作家、アルファブロガー。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」、投資をテーマにしたブログ「フルインベスト」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。

シェアハウスに暮らせない。プライベートに他人がいるから

首都圏で若者が誰の援助もなくひとりで暮らそうと思ったら、安普請のアパートを探すか、凄まじく遠いところに引っ越すしかない。しかし、それも正社員の仕事があるという前提である。

仕事が不安定であれば、家賃はひどく重いものになる。だから、ネットカフェ暮らしの若者も出てきているし、シェアハウス暮らしの若者も出てきているのだ。

もし、あなたが極貧に堕ちてシェアハウス暮らしをしなければならないとしたら、嬉々としてそこに暮らせるだろうか。

私はそこがどんなに清潔で共同生活する人たちと気があったとしても、長くそこに暮らすのは不可能だと考えて短期間で出ていく。なぜなら、基本的に私は「自分のテリトリーに誰かを入れる」のを好まない性格だからだ。

自分のねぐらには誰も居て欲しくない。独りでいたい。邪魔されたくない。

一週間や二週間なら別にどうということはないが、一ヶ月も二ヶ月も誰かと一緒にいるくらいなら、大阪あいりん地区のタコ部屋に潜り込んで暮らす方がまだ性に合っている。(ブラックアジア:鈴木傾城、あいりん地区で1泊1000円のタコ部屋に沈む

私は生まれながらにして協調性はないし、他人とのつながりも希薄だ。完全に孤独になるのは寂しいとは思うのだが、それでも他人に四六時中一緒にいて欲しいという気持ちはまったくない。

私は親友も腹心の友もまったく存在しない。作る気持ちもない。縁のあった人間関係は大切にするが孤独志向のタイプだ。

どんなに貧困に堕ちたとしても私が絶対にシェアハウスを選択しないというのは、常にプライベートをシェアするほどの人間関係から一線を引いて生きているからでもある。

私は自分の関心のあることは深く没頭するが、関心のないものはすべて遠ざける。そういう意味で、かなりの自分中心主義の生き方をしている。

シェアハウスを選択しない理由もここにある。シェアハウスに暮らせない。プライベートに他人がいるからだ。その環境が心から嫌いだ。集団生活ができない。そんな環境に放り込まれたら脱走する。

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そこまでして他人と一緒にシェアハウスに住む理由があるのか?

海外でシェアハウスが一般的だとか、日本でもそれが浸透しているとか、そんなことはどうでもいい。シェアハウスに暮らすことが好きな人もいるのは事実であり、さらにシェアハウスに暮らすことに意味を見出す人がいるのも事実だ。

しかし、私はそうではない。

私の場合は性格的にいささか極端ではある。しかし、私と同じように「他人と空間をシェアしたくない」と思う人は多いのではないか。いくらそれが流行っていようが何だろうが、「嫌なものは嫌だ」と感じる人もいるはずだ。

私は国外のアンダーグラウンドに長かったので、あまりにも信用できない人と出会いすぎた。見知らぬ他人を完全に受け入れるよりも、常に警戒心を働かせて距離感を保つ方が心地よい。

距離感を保つためには、プライベートで絶対安全な空間を確保するところから始まる。つまり、テリトリーを確保するために動く。シェアハウスでは、それが望めない。

シェアハウスではプライベート空間に他人がうろうろしている。私の場合、自分のプライベートに他人がうろうろしていたら気が散る。他人のために時間を割かなければならない。

私と同様にそれが心地良くないと思う人も多いだろう。それは決して些細なことではない。

もし、シェアハウスに邪悪な人間や信用できない人間が存在したら、その人間とプライベートを共有することは可能だろうか。長く暮らせば暮らすほど、軋轢は深く険しいものになっていくはずだ。

邪悪でない人たちばかりだったとしても、一緒にいる時間が長くなれば、ちょっとしたことで諍いも出てくるのは間違いないし、共同生活のルールをどうしても守れない人が出てきて対立が生まれることもある。

時間の使い方、モノの使い方、空間の使い方、習慣、騒音に関しても、自分は些細なことだと思っても、相手には許しがたいものだと考えることもある。逆も然りだ。その一つ一つは些細ではあっても、それが積み重なると極度のストレスになる。

このように考えると、そこまでして他人と一緒にシェアハウスに住む理由があるのか、というところに行き着く。

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テリトリーを食い潰されることに危機感を抱けない?

私は一週間くらいならまだしも、さすがに一ヶ月もシェアハウスで暮らせない。

しかし、中には一年や二年くらいは普通にいられる人もいるはずだ。シェアハウス内でトラブルがあったとしても、意に介さず暮らせる人がいても不思議ではない。

しかし、私はほとんどの人がシェアハウスに暮らすことにストレスや問題を抱えることになると考えている。

私ほど極端ではなくても、人は他人が介在しない自分だけの空間というものを必要としており、他人がプライベートに踏み込んでくるということに緊張感やストレスを感じるはずだからだ。

人間も、テリトリー意識がある。

野生動物もテリトリーを非常に大切にしていて、自分のテリトリーに他者が入ってくると猛然と戦うのだが、なぜテリトリーを守るために戦うのかというと、テリトリーこそが自分が安心できる空間であり、真の自由だからである。

そこに他者が勝手に入り込むというのは、自分の安心できる場所がなくなってしまうということである。テリトリーを失うと自由を失うのだ。

テリトリーを奪われると新たなテリトリーを探さなければならないが、それは他人のテリトリーを侵害することにもつながり、攻撃され、傷つく可能性が高まる。テリトリーを失うことを野生動物が嫌うのは「まわりが信用できないから」であり、「安心できる空間を失うと命をも失う危険に見舞われるから」でもある。

人間にとって、家の中というのは明確に自分のテリトリーだ。

そのテリトリーに他人が出入りして空間を共有して何とも思わないというのは、あまりにも無防備すぎる。

個人は家というテリトリーがある。集団は市町村というテリトリーがある。国民は国というテリトリーがある。

テリトリーが侵害されても何とも思わない人もいるかもしれないが、テリトリーを食い潰されることに危機感を抱けないというのは、どこか「終わっている」と感じないだろうか。

そういう意味でも、私はシェアハウスというのは好きではない。そういうスタイルがあってもいいが、自然ではないと個人的には強く感じる。あくまでも私個人の感覚だが、シェアハウスは好きになれない。(written by 鈴木傾城)

都内にある、とあるシェアハウスの入り口。(ブラックアジア:底辺でどんどん増えていくシェアハウスと、部屋内の写真

 

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