差別を隠れ蓑にして自分の悪徳や自業自得を相手に責任転嫁するサイコパス

差別を隠れ蓑にして自分の悪徳や自業自得を相手に責任転嫁するサイコパス

差別をするのは良くない。それは当たり前のことだ。しかし、差別を隠れ蓑にして自分の悪徳や自業自得を相手に責任転嫁してなじるのはさらに最悪だ。それこそが新たな軋轢を増幅するものだからである。

たとえば、自分の主張ばかりで他人の話をまったく聞かない人間がいたとする。何でもかんでも「自分は正しい、相手は間違っている」と考え、自分の主張だけを大声を張り上げて押し通す。

そういった人間はやがて孤立して、まわりに誰も寄りつかなくなる。そうすると、その人間は孤立に気付いて、今度はこのように叫び出す。

「私は差別されている。傷ついた。傷ついた私を何とかしろ!」

客観的に考えれば、この人は自分の主張ばかり押し通して「話にならない」から避けられたわけである。この危険な人間が孤立していったのは「差別された結果」ではない。「軽蔑された結果」だ。

自業自得なのに「差別だ」と叫んでいる人間に対しては「お前は差別されているのではない。軽蔑されているのだ」ときちんと分からせなければならない。差別と軽蔑。その違いは、とても大きなものであり、まったく違うものである。(鈴木傾城)


プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)

作家、アルファブロガー。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」、投資をテーマにしたブログ「フルインベスト」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。

誰も寄りつかなくなると差別と言う

他人を恨んでばかりで、何でもかんでも「恨み」を持って他人を攻撃する人間がいたとする。「恨み」がすべてで、執拗に、粘着的に、そして気が狂ったかのように「お前を恨む、この恨みは忘れない」と叫び通す。

そのような人間はやがて孤立して、まわりに誰も寄りつかなくなる。一緒にいるには危険な人間だからだ。いつ自分が恨まれるか分からないからだ。

人は基本的に危険から逃れようとする。危険を避けるのは差別ではない。本能だ。しかし避けられた本人は、去っていった人間に向かってやがて叫び出す。

「私は差別されている。傷ついた。傷ついた私を何とかしろ!」

本人は差別されているのだと思っているのかもしれないが、実は差別されているのではない。それは誤解だ。その人のまわりから人が去るのは、「差別された結果」ではなく「軽蔑された結果」なのである。

世の中には、軽蔑される人間は山ほどいる。

不平不満をぶちまけて他人のせいにする人、何かあればすぐに激怒してすべてをぶち壊す人、怨念ばかりを募らせて前に進まない人、感謝という気持ちをまったく持たず、他人のものは自分のものだと考えているような人……。

こうした人間はまわりを戸惑わせ、困らせ、そして自然とその人のまわりから人が去っていく。そうすると、その人間はそれが自分のせいではなく他人のせいだと解釈して「差別されている」と言うのである。

しかし、そうではないのだ。その人は、差別されているのではなく、紛れもなく100%「軽蔑されている」のである。

なぜ軽蔑されているという事実に気付かずに、差別されているというように考えるのか。それは難しい話ではない。

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分析ができない理由とは?

こうした人間は、法律を犯していないとしても潜在的に反社会的人格を持っていると言える。言ってみれば「サイコパス」である。サイコパスは、本質的に「軽蔑されている」という事実に向かい合うことができない。

軽蔑されているという事実に気付くと、「なぜ軽蔑されるのか?」という分析をしなければならなくなる。そうすると、サイコパスは自分のゆがんだ性格を見つめなければならない。

客観的に分析すると、こうなったのは自分が悪いということになってしまう。サイコパスには「自分が悪い」という事実が耐えられない。

サイコパスは、何が何でも自分が悪いのではなく他人が悪いということにしたい。そのために便利に使われるのが「差別されている」という言葉なのだ。

差別を隠れ蓑にして自分を守りながら他人を責める。

悪意・憎悪・嫉妬・怨念・不平不満の中で生きていて自業自得で孤立していくサイコパスは、最終的にその性格ゆえに人生がうまくいかなくなる。

しかし、「差別されているから、こんなことになった」と主張する限り、その人は永久に物事を他人のせいにできる。自分を見つめ直さなくてもいい。

だから、サイコパスは何十年経ってもそうする。嘘でも捏造でも何でも使って、ひたすら「自分は悪くない。自分は差別された」と激高しながら叫び続ける。嘘でも100回言えば真実になると思っているかのようだ。

こうした態度がますます「軽蔑される」ことになって人を遠ざける結果になるのだが、サイコパスはさらに強く差別されるようになったと解釈する。差別されているというのは事実ではない。事実はこうだ。

「差別されているのではない。軽蔑されているのだ」

本人も心の中でそれが分かっている。しかし、それを認めると人格崩壊を起こしてしまうから認めることができない。そして、馬鹿のひとつ覚えのように「差別された。どうしてくれるんだ!」と泣きわめき続ける。

何とかしてくれる人が出るまで声高に、大袈裟に、火がついたような熱気で「泣き叫ぶ演技」をする。

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ただ単に「軽蔑」しているだけ

情熱的、確信的に嘘を付く人間は「気が狂っている」と思われて避けられる。すると、それを「差別だ」と言い始める。そんなことを繰り返すので、まわりはこの人のことを知れば知るほど嫌いになる。誰も近寄りたくない。

内面は嫉妬と恨みで満ち溢れているのに、外面だけは飾ろうとする。醜い内面を隠蔽し、整形手術で得た仮面の顔のように表面だけはきれいなものにする。

しかし、汚い内面を知った人間は去っていく。いくら表面がきれいでも、中がゴミの山であったら、誰でもそんなところから去りたいと思う。それは、差別でも何でもない。

あるいは、不正をしてもバレなければいいと考えるような人間もいる。それがバレて責められると「差別されている」と言い始めるサイコパスもいる。もちろん誰も差別していない。ただ単に「軽蔑」しているだけなのである。

サイコパスが「差別されている」というのは、自分の人格破綻を覆い隠して、自分のまわりに問題があるかのように見せかけるための手法である。

だから、こうした人間が「差別している」と叫び出すと、「お前の性格に問題があるから軽蔑しているのだ」と、きちんと相手に問題を返さなければ、いつの間にか私たちが悪いことになってしまう。

サイコパスに関わると、まわりが差別主義者にされていく。これこそが、仕掛けられたワナである。

世の中には、何でもかんでも他人のせいにして「差別された」と言って回る価値観の共有できないサイコパスがいる。

「お前は差別されているのではない。軽蔑されているのだ」と本人にきちんと分かってもらう必要がある。とは言いつつも分かってもらえないのは最初から分かっていることだ。そうであれば、どうするのか。

言うまでもない。関わらなければいい。積極的に避け、相手にしない。関係を断つ。それが唯一絶対の解である。(written by 鈴木傾城)

差別をするのは良くない。それは当たり前のことだ。しかし、差別を隠れ蓑にして自分の悪徳や自業自得を相手に責任転嫁してなじるのはもっと良くない。それこそが新たな軋轢を増幅するものだからである。

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