自分が邪悪になる必要はないが、邪悪の存在を意識しておくのは大切だ

自分が邪悪になる必要はないが、邪悪の存在を意識しておくのは大切だ

どこかの国で台風や地震や豪雨のような自然災害が起きて、広い範囲が被害に遭い、多くの人たちが傷ついたとき、ほとんどの人は被害に遭った国の人たちに同情し一刻も早く立ち直って欲しいと考える。

自分にできることはないか、募金はどうなのか、ボランティアはどうなのかと考える。基本的に人間は善良であり、困った人たち、泣いている人たち、追い詰められた人たちを見ると、普通は心穏やかではいられない。

「自分にできることであれば、何とかしてあげたい」と思う。

ただ、世界はいつも揺れ動いている。常にどこかで被害者が生まれているので、いつも誰かを助け続けることは実質的に不可能でもある。そうであっても同情心や思いやりを忘れない。

しかし、現実はきれいな部分だけで存在していない。

中には被害に遭った国や人を指して、「そのまま沈没しろ」「天罰だ」と嘲笑い、「地獄に堕ちろ」と罵るクズもいる。たとえば、日本はしばしば大きな被害に遭う国だが、この日本を指して「国民性が悪いから天罰を受けているのだ」と嘲笑って日本の苦境を喜ぶ国さえもある。

善良である人たちがいる反面、邪悪な人間も一定数存在する。それが「世の中」の現実である。(鈴木傾城)


プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)

作家、アルファブロガー。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。

優しさの「深さ」や「範囲」を問題にする人もいる

優しさの「深さ」は人によって違う。ホームレスに小さなカネをそっと差し出すまでが限度の人もいれば、ホームレスのために食事や住居を与え、更生できるまで尽力するところまでする人もいる。

また優しさをかける「範囲」も、人によって大きく違っている。自分の子供にしか優しさをかけない人もいれば、友人や顔見知りの人にも優しさをかける人もいれば、見知らぬ人ですらも優しさをかける人もいる。

マザー・テレサのように、「私たちは大きいことはできません。小さなことを大きな愛をもって行うだけです」と言って、自分の人生のすべてを困った人に捧げるという人すらもいる。

優しさの「深さ」や「範囲」は、人によって異なっているのだが、それでも自分以外の誰かを助けるという気持ちを持っているのは間違いない。相手の立場になって考えることができる人なのだ。

優しさの「深さ」や「範囲」を問題にする人もいる。しかし、それは間違っている。そうではなくて、そうした優しさを持っていること自体が重要なのだ。

どこかで災害が起きて莫大な被災者が助けを求めているとき、一番に駆けつけて黙々と復興支援に手を貸す人たちも夥しくいる。駆けつけることができなくても、募金や寄付で少しでも何とか役に立てるようにしたいと行動する人もいる。

その、どの行動も美しい。こうした人たちがいるから、社会はうるおいがある。

今、世界のあちこちで巨大な災害が次々と発生していて、そのたびに被災に遭った現場では大きな犠牲が生まれている。地球の環境は過酷になってきており、以前には考えられなかったスケールの自然災害が起きている。

大きな地震、吹きすさぶ暴風雨、強烈な熱波、豪雪……。そのどれもが、かつては考えられないようなスケールなのだ。これから私たちはいつ、こうした災害に巻き込まれるのか分からない状況にある。

これからは、優しさや助け合いができるかどうかで、国や民族や地域が助かるかどうか決まると言っても過言ではない。

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災害が起きるたびに騒乱になる場所もある?

日本人は、被災者を見捨てない国民性がある。「困ったときはお互い様」「助け合いの心」「優しさ」が社会の根底にある。しかし、これらのものは全世界が共通して持ち合わせているものではない。

そして、常に機能するものでもない。

何らかの大きなトラブルで、他人が苦しんだり困っているのを見ると何とかして助けてあげたいと思う心の優しい人がいる反面、他人の不幸を嘲笑ったり、他人の苦境に喜んだりする人もいる。

また、巨大な被災地がどこかにできると、そこに乗り込んで火事場泥棒のような真似をしたり、略奪やレイプをしたりする冷酷な集団もいる。あるいは、被災地に行ってにっこりと記念撮影して帰るだけの人間もいる。

彼らは他人が苦しんだり困っている姿が深刻であればあるほど、サディスティックに嗤(わら)うのである。「もっと苦しんでる方が面白い」「もっと悲しんでいる方が楽しい」と考えるのだ。

あるいは、「弱っている相手を叩きのめして奪える」「どさくさに紛れて略奪して得する」と利己主義な論理で行動する。

自分を相手の立場に置き換えて考えることができない。他人の苦しみや悲しみに同情することができない。他人が困っている姿を見たいという邪悪な心さえも持つ。そして自分の利益だけしか考えない。

優しさよりも、利己主義が蔓延している国や社会もある。「優しさ」が社会の根底にある日本で生きていると想像すらもできないかもしれないが、災害が起きるたびに略奪・暴力・レイプ・犯罪が吹き荒れて、社会が騒乱になる場所もあるのだ。

自分がどちらの共同体に属しているのかで、自分が叩きのめされたときに、生き残れるかどうかの確率が変わる。

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現実主義者になるというのはどういうことなのか?

世の中は「きれい事」だけでは成り立っていない。場合によっては狂気が支配することもある。

だから、優しさや助け合いを忘れないように持っておくのと同時に、嘲笑や利己主義をも社会の暗部には存在するということを同時に考えておく必要もある。

つまり、自分がトラブルに堕ちたとき、優しさどころか嘲笑を浴びせられることになる可能性もあるということなのだ。

優しさや助け合いだけで成り立つのは理想主義者の妄想であって、それはリアルではない。

リアルには、善良なものと同時に必ず邪悪なものも存在する。この「邪悪なもの」を意識して、どちらの存在もあることを認識するのが「現実主義者」であると言える。

自分が邪悪になる必要はないが、邪悪の存在を意識しておくのは大切だ。

「自分だけが良ければそれでいい」「相手が不幸であればあるほど心地良い」「弱っている相手から奪いたい」と考える邪悪な存在は必ず自分の眼の前に登場するものだからである。

「優しさ」ばかりが世の中だと思ったら裏切られる。しかし邪悪の存在を想定しておくことで、裏切りを見抜くことも対処も防御もできる。

そう考えると、「現実主義者になるというのはどういうことなのか」が分かってくるはずだ。現実主義者になるというのは、まずは世の中の裏側に渦巻く「邪悪を知る」ということなのである。

優しさに「深さ」や「範囲」があると同時に、邪悪にもまた「深さ」や「範囲」がある。あるいは、人間は優しさと邪悪を両方持ち合わせている。あるときには優しさが、あるときには邪悪が表に出てくる人もいる。

とても優しく見える人が、最も邪悪な存在だったということも、世の中にはしばしばある。それは、悪夢なのだろうか。いや、悪夢とは言わない。現実と言う。(written by 鈴木傾城)

インドネシア・スラウェシの大地震の死者。どこかの国で台風や地震や豪雨のような自然災害が起きて、広い範囲が被害に遭い、多くの人たちが傷ついたとき、ほとんどの人は被害に遭った国の人たちに同情し一刻も早く立ち直って欲しいと考える。

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