たったひとつの社会的不利が、どんどん人生を悪化させていく残酷な現象もある

たったひとつの社会的不利が、どんどん人生を悪化させていく残酷な現象もある

今は何とかうまく生きていても、私たちはいつでも何らかの問題を1つ抱えることで、社会のどん底にまで堕ちる危険にある。たった1つの不運がどんどん苦難を呼び、深みに落ちていく。それを避けられればいいが、誰もが幸運に恵まれているわけではない。(鈴木傾城)


プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)

作家、アルファブロガー。まぐまぐ大賞2019、2020年2連覇で『マネーボイス賞』1位。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」、投資をテーマにしたブログ「フルインベスト」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。(連絡先:bllackz@gmail.com)

世の中は明瞭に白と黒で区分けできるようになっていない

社会的に不利な状況というのは、同じ境遇の人でない限り、よく理解されないことが多い。たとえば、健康な人には病気を抱えて生きている人の苦しみは分からない。若者は老人の動作の鈍さに苛立つ。

充分な給料をもらっている人は低所得の人たちを蔑む。仕事のある人は失業者に優越感を持つ。高学歴者は低学歴者を自業自得と嘲笑う。そして正社員は非正規雇用者を負け組と考える。

社会的に不利な立場にある人は、基本的に社会から理解されない状況に陥る。そして、成功している人からはマウントを取られて見下され、その苦境を「自己責任」のせいにされやすい。

メンタリストDaiGo(松丸大吾)なる人間が「ホームレスの命よりも猫の方が大事」と見下し、自分を批判してくる相手に「俺はお前よりも稼いでいる」とマウントする言動は、まさにそれを象徴する醜い一面であった。

実は社会的に底辺に堕ちている人たちの中には、明らかに自己責任としか思えないような言動をして自ら立場を悪くする破滅的な人や、最初から個人や社会に寄生して働かないで生きようとする自堕落な人も存在する。

そのため、自己責任という考え方は100%間違っているというわけではない。しかし、世の中は明瞭に白と黒で区分けできるようになっていない。

社会の底辺に堕ちた人の中に、完全なる自己責任の人がいても不思議ではないのだが、「自己責任がすべてではない」というのもまた事実である。

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「弱り目に祟り目」というのは本当のことだ

たとえば、生まれながらに貧しい家庭であったり、家庭が機能していなかったり、虐待を受けていたり、IQ(知能指数)が平均よりも低かったり、大きな挫折があったり、事故や病気で障害を抱えたりして、うまく社会に適合できない人もいる。

こうした人たちは自分では克服できない社会的不利を最初から背負っている。

ひとつ不利なことがあれば、それが別の不利を呼び、不利が複合的になっていく。「弱り目に祟り目」というのは本当のことだ。1つ悪いことが起きると、次から次へと悪いことが起きていく。悪いことが悪いことを呼び寄せるのだ。

たとえば、家庭が極度に貧しかったとする。子供自身はそれに気付かないかも知れないが、社会的に見れば不利を背負っているとも言える。

貧しかったので親に学費を負担させるのを遠慮して、進学よりも就職を選ぶ若者もいる。高卒どころか、中卒で就職する若者も存在する。

そうするとどうなるのか。高スキルの仕事を任せてもらえないので、低賃金の仕事しか就けないことになる。そうした仕事は条件も環境も悪いので、少しでも状況の良いところに移ろうと考えて仕事を渡り歩くことになる。

ところが仕事を渡り歩くと、より就職に不利になっていき、条件の良い仕事はますます遠ざかっていく。失業する期間も出てくる。そして最後には、非正規雇用かパートのような仕事しか見つからなくなる。

そうした環境の中で無理して働いているうちに健康を害することになる。しかし、金銭的にも時間的にも病院に行く余裕がなく、病気を悪化させる。自分の環境に嘆き、自暴自棄に陥れば、アルコールや喫煙などの悪癖にも染まっていき、寿命を縮める。

低所得の人たちの寿命は高所得層の人たちよりも短命であることが知られている。

この人の最初の不利は「家庭が貧しかった」という、たったひとつの社会的不利だった。しかし、その1つの不利は、低学歴、低所得、失業、非正規雇用、病気、悪癖、短命……とありとあらゆる社会的な不利を呼び、複合的になっていく。

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成功物語はとても稀少だからドラマや映画になるのだ

考えなければならないのは、「家庭が貧しかった」というのは自己責任でも何でもないということだ。それは運命だったのだ。

「貧しい人は全員、貧困が決定付けられているわけではない」というのは事実だ。しかし、極度な貧しさを克服するというのは私たちが思っている以上に難しい。

貧困層の家庭で生まれた子供たちは貧困の中で生まれ育ち、最後はそこで死んでいく。そのような結末の方が圧倒的に多い。成功物語は稀少だからドラマや映画になるのである。

たとえば、国が貧しいと大半の国民は貧しいというのは誰でも知っている。それは、本人の努力ではいかんともし難い環境があると、それを乗り越えるにも限度があるということを意味している。

2021年8月15日、アフガニスタンは再びイスラム原理主義のタリバン政権が実権を掌握して、徐々に国内をイスラム原理主義で締め付けるようになっているのだが、私たちがそこで生まれていたら、今の生活が成り立っていただろうか。

内戦や極貧や時代錯誤の圧政の中で、私たちは豊かな生活を自分の力だけで手に入れることができただろうか……。あなたがアフガニスタン人だったら、人生を豊かに生きるどころか、もうこの世にいなかったかもしれない。

極度に悪化した社会環境を自力で乗り越えるというのは大変なことである。貧しい国であっても、それを克服して豊かになっていく人も存在するが、大半はそうではないということを認識しなければならない。

そのため、成人しても貧困の中で暮らしている人を指して、「自己責任である」と一方的に決めつけるのは非常に乱暴な指摘でもあるし残酷なことでもある。メンタリストDaiGoのようなメンタルはもっての外だ。

インドの貧困層の女性たちを扱った『絶対貧困の光景 夢見ることを許されない女たち』の復刻版はこちらから

誰でも、いつでも、悪夢のような世界に転がり堕ちる

低学歴、低所得、失業、非正規雇用、病気、悪癖のすべては、自己責任のものもあると同様に、仔細に見れば自己責任ではないものも含まれている。そして、その複合的な「不利」は、たった1つの不利から派生することもある。

これは何を意味しているのかというと、今は何とかうまく生きていても、私たちはいつでも「たった1つの不利」を抱えることで、社会のどん底にまで堕ちる危険にあるということなのである。

たった1つのきっかけがどんどん苦難を呼び、その深みに落ちていく。それを避けられればいいが、誰もが幸運に恵まれているわけではない。自分の人生を不利にする「きっかけ」は、誰でも経験する珍しくないものだったりする。

勤めている会社が倒産した。リストラに遭った。初めての職場で失敗した。ブラック企業だった。事故に遭った。家族が病気で介護が必要になった……。

鬱病になった。職場で人間関係のトラブルに巻き込まれた。若くして妊娠してしまった。結婚に失敗した。家庭が崩壊した。シングルマザーになった……。

親と断絶した。住居を失った。借金を抱えた。過大な住宅ローンに押しつぶされた。アルコール依存症になった。パチンコ依存症になった……。

最近ではコロナ禍で失業したとか、減収になったとか、あるいはコロナに感染して健康を失ったというのも、どん底《ボトム》に転がり落ちていく「きっかけ」になってしまうかもしれない。

転落のきっかけは枚挙に暇がないほどあるのだが、そのどれもが明日にでも自分の身に降りかかってもおかしくないものなのである。そして、自らに降りかかってきた不利を制御できなくなった時点で、人は社会のどん底に転がり堕ちる。

弱肉強食の資本主義が蔓延していく中で、「社会的に不利な人間ほど、どんどん不利の深みに落ちていく」という現象はますます鮮明になっていく。その中に自分の姿がないとは決まっていない。

野良犬の女たち
『野良犬の女たち ジャパン・ディープナイト(鈴木 傾城)』

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