他人の批判をモノともせずに突っ走っている人は、SNS時代に適応しているのだ

他人の批判をモノともせずに突っ走っている人は、SNS時代に適応しているのだ

生きているだけで疎んじられ批判され、それがSNSで「見える化」される。そんな時、自分を理解してくれない人がいることに思い悩む人も多い。結論から言うと、最も合理的かつ効率的なのは、反対者や批判者はあっさりと「切り捨てる」ことなのである。(鈴木傾城)


プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)

作家、アルファブロガー。まぐまぐ大賞2019、2020年2連覇で『マネーボイス賞』1位。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」、投資をテーマにしたブログ「フルインベスト」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。(連絡先:bllackz@gmail.com)

批判と反対と誹謗中傷を「見える化」したのがSNS

私の知り合いは誰も彼も揺るぎない信念を持っている人が多くて、しかもそれを歯に衣着せない口調で世間に向けて主張するので、しばしば炎上し、反対者から凄まじいまでの批判を受ける。

ところが、誰ひとりとして他人の人格攻撃や誹謗中傷や罵倒や殺害予告を気に病んでいる人がいない。普通の人であれば寝込むような罵倒を、何とも思っていないのである。強がっているのではなく、本当に何とも思っていない。

これは、なかなか興味深いものである。批判されて自殺を選ぶような人もいるが、逆に何とも思わない人もいるのだから、人間の多様性について考えざるを得ない。

人の批判をどのように捉えるか。これはSNSで全世界が否応なしにつながった現代社会においては非常に大きなテーマであると私は思っている。

人は誰でも意見を持って何らかの意思表示をした瞬間に、期せずして批判の渦に巻き込まれる。人は生きている限り、他人の批判から逃れることができない。自分が持った意見は、必ず正反対の意見を持つ人たちから激しく責められる。

自分自身が考えたことは、必ず妨害され、野次られ、敵視され、けなされる。何かすれば、敵対者からは必ず責任を追及され、いかに馬鹿げたことをしたのかと責められ、どうしようもないと軽蔑されるのだ。

私たちは何かしたらそれで責められ、何もしなければ何もできないと責められる。真面目でいると面白味がないと嘲笑され、普通でいると個性がないとけなされ、不良がかると社会不適合者だと吐き捨てられる。

この批判と反対と誹謗中傷を「見える化」したのがSNSなのである。

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 素晴らしいものは、無理解と酷評と罵倒の中にあった

あらゆる芸術作品や表現物があって、多くの人が多くの創作をするが、100%好意的な評価を受けることは絶対にない。必ず、一定の批判者が生まれる。映画も斬新な手法で表現されるたびに、こんなものは映画ではないと批判されることが多い。

音楽も、新しいジャンルは必ず大批判と無理解の中から始まっている。ジャズも、ブルースも、ロックンロールも、パンクも、ラップも、最初は「こんなものは音楽ではない」と言われて批判されていたものだった。

ビートルズの音楽も、最初は「騒々しいだけ」と批評家から酷評されていたし、ローリング・ストーンズの音楽も「下手な不良グループ」と散々な評判だった。ジミ・ヘンドリックスの音楽も「ノイズと雑音まみれ」と不評を買った。

素晴らしいものは、無理解と酷評と罵倒の中にあったのである。

料理もそうだ。日本料理の刺身は、かつては世界中からゲテモノ料理、残酷な料理だと批判されていた料理だった。しかし、年月が経つと共に、それが日本文化に根ざした非常に繊細な料理であることが理解されるようになっていった。

つい最近まで、アメリカ文化の中に根付いたハンバーガーのようなものは、食べるに値しない安物ジャンクフードだと嘲笑された料理だった。しかし、年月が経つと共に、それは世界中に広がって愛される料理となっていった。

とは言っても、批判がゼロになることは絶対にない。

すべての人が刺身やハンバーガーを理解し、愛しているのかというと、人の好みは様々なので、決して全員に理解され、愛されているわけではない。相変わらず刺身は「残酷で理解できない料理」と考える人々もいるし、「ハンバーガーなど、貧困層しか食べないクズ食品」と嫌悪する人たちもいる。

ビートルズも、ローリング・ストーンズも、ジミ・ヘンドリックスも、今でもその音楽を嫌う人は世界中に何十億人といるはずだ。

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日本人に悪感情を抱く人たちも数千万、億単位で存在する

絶対に100%理解されるということはあり得ない。ありとあらゆる存在物は、100%好かれることはない。必ず、反対者や批判者を生み出し、好きどころか「心から嫌う」人すらも生まれてくるのである。

ありとあらゆる存在物は、両極端な評価を得ることになる。誰が何を生み出しても、それが一部では名作と評されていたとしても、絶対に100%好かれたり、100%同意されたりすることはない。

文化にしてもそうだ。日本文化は素晴らしい文化であり、日本は素晴らしい国だ。しかし、そうだとはしても100%そうだと同意されるわけではない。

日本を激しく憎み、日本文化をけなし、日本人に悪感情を抱く人たちもたくさんいる。日本人が日本人であるという理由で嫌われることもある。

「日本など沈没して消えてしまえ、日本人は全滅しろ」

このように、心から願う人間どももいる。恐らく数千万、億単位で存在する。

客観的に現実を見たとき、私たちは自分が批判から逃れられない存在であることを認めざるを得なくなる。

これは、他人事ではない。すべての人間に当てはまることだ。自分自身を振り返っても分かるはずだ。私たちは生きているだけで、誰かに嫌われ、憎まれ、批判され、白い目で見られることになる。

パレートの法則(80:20の法則)という経験則があるが、一般的に言えば普通の人でも10人中2人に嫌われる。もし、先鋭的な意見や、表現や、発言をしているのであれば、嫌われる確率はもっと増える。目立てば目立つほど賛同者と共に反対者や批判者が増えていく。

これは、私たちの人格や性格とはいっさい関係のないところで起こる現象だ。自分がそこにいるだけで、許せないと感じる人が世の中にはいるのである。

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理解してくれない人がいることに思い悩むのは無駄な時間

生きているだけで疎んじられるというのは、多くの人に思い当たるフシがあるはずだ。そんな時、自分を理解してくれない人がいることに思い悩み、どうすればいいのかと答えを探し求めようとする人もいる。

結論から言うと、最も合理的かつ効率的なのは、反対者や批判者は、あっさりと「切り捨てる」ことなのである。

私たちは世の中を支配できない。そうであれば、私たちがしなければならない唯一のことは、「常に批判する人間はいる」と認め、その人たちを切り捨ててしまうことである。

相手を変えようとしたり、反論したり、話し合おうとしたりするのも無駄だ。切り捨てて関わらない。自分の人生に関与させない。説得しない。教えない。

なぜ、それがいいのか。

理由は簡単だ。反対者や批判者の意見を変えさせるよりも、賛同者を増やした方が「効率が良く合理的」だからだ。反対者の意見を変えさせるのは苦労する。結果的に無駄な努力になるかもしれない。無駄ではないかもしれないが、かなり面倒な仕事になる。

この忙しい現代社会で、なぜいちいち反対者や批判者のために、効率の悪いことに取り組まなければならないのか。ひとりの反対者を転向させるより、賛同してくれる人を見つける方が効率的なのだから、それを選択すべきだ。

「どうでもいい人間は切り捨てる」
「批判者を転向させるより賛同者を見つける」

日本人は今まで自分に反対する人たちの意見や、自分たちに対する批判には過剰に反応し過ぎてしまっている。無意味な配慮も横行している。基本的に優しすぎる。だから「どうでもいい人間は切り捨てる」という効率的な生き方ができない。

しかし、そろそろこのあたりを変える必要が出てきている。
日本人はもっと我が道を行っていい。

そういう意味で、他人の批判をモノともせずに突っ走っている人は、時代によく適応していると私は考えている。

『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』

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