人々が何を信じても構わないが、私は宗教を意識的に避けた

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地下鉄サリン事件を引き起こした宗教集団オウム真理教の裁判がすべて終わり、死刑が予定されている信者たちがそれぞれ別々の刑務所に移送されていく動きがあった。

死者13名、被害者6300人を出した地下鉄サリン事件は、日本人にとって忌まわしい事件である。首都圏に住んでいる人たちや都内で働いている人たちにとって、あの日どこで何をしていたのか誰もが覚えているはずだ。

私自身はタイから戻ってきていたのだが、あの日の朝は表参道に用があってそこに向かっていたところだった。途中で電車が止まったので歩いて目的地に行った。

歩いている途中で次の駅の入口が見えたが、そこでも電車に乗れない人がいて「何が起きたのか?」と駅員に詰め寄っていた。駅員は「どこか爆発した」「煙が充満している」と言っていた。

事件が起きた当初、現場でも「何が起きていたのか」は分かっていなかった。これが日本史上最悪の有毒ガスを使ったテロ事件であるとは誰が想像しただろうか。

この犯罪教団は、その残党がアレフという名前に改称して現在も活動を続けている。

最近、麻原彰晃の娘がマスコミに出てきて「教団の教えは信仰というより文化だった」と発言している。宗教は、文化にまで落とし込めば人の思想や生き方を強く支配し、そこから逃れられなくなるのが分かる。(鈴木傾城)


プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)

作家、アルファブロガー。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。

「日曜日は教会に行きたい。一緒に行きましょう」

ところで、私自身はまったく宗教を信じていない。

これまで私が知り合ってきた東南アジア・南アジアの女性たちは、それぞれが仏教・キリスト教・イスラム教・ヒンドゥー教などを心から信じていたのだが、私自身はまったく感化されることはなかった。

もっとも、宗教についてはいろいろ想い出はある。以前、私の体調が非常に悪かったとき、彼らはどうしても私をワット(寺院)に連れて行きたがった。

私には悪霊(ピー)が憑いているので、お祓いしなければならないのだと彼らは言った。

私は長らくタイをうろうろしていたが、それまで寺院(ワット)に足を踏み入れたことは一度もなかった。用がなかったからだ。しかし、この時はじめて断り切れなくて女性に連れられて足を踏み入れている。

一緒に行った女性が熱心に拝んでいるのを横目で見ながら、私はまったく何も期待しないでただ堂内を観察していただけだった。

インドネシアやバングラデシュではみんなイスラム教を信じており、奔放な女性たちでさえ時にはジルバブをつけて敬虔になるのを目の当たりにして驚いた。

リアウ諸島のある島で私はひとりの女性に出会って「ふたりでここで暮らして子供を育てましょう」と言われたが、その時に私が思ったのは宗教のことだった。

インドネシアで暮らすということは、私もまたイスラム教徒になるということなのか……。堕落と退廃で生きてきた私がイスラム教徒になるというのは滑稽だ。複雑な思いが去来したものだった。

フィリピンに行けば、大半の人々がキリスト教である。しかも厳格なカトリックを信じている。あちこちに荘厳な教会が立ち、十字架が売られ、イエス・キリストの銅像さえ売っている。

そして、簡易教会がなんとショッピングモールの中にさえ存在している。

人々は敬虔に祈り、そして友好的だ。彼女たちは決まって十字架のペンダントをしていた。

「日曜日は教会に行きたい。一緒に行きましょう」と言い出した女性もいた。私は即座に断って、彼女は押し黙って気まずい空気が流れた。

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「誰かを殺せ」と教祖が言えば誰かを殺す世界

私はタイで多くの女性たちが仏陀(ブッダ)の像や祠に手を合わせるのを見て美しいと思ったり、インドネシアの女性たちのジルバブに見とれたり、インド女性のおまじないの仕草に心を奪われたりした。

しかし、それでも宗教には決して深入りしなかった。注意深くそれを避けていたのだ。私は無神論者だ。人々が何を信じても構わないが、私自身は宗教を意識的に避けた。

宗教が人々の心に定着し、それが文化になり、共同体になり、時にはその美しさには感銘を受けることはあったが、だからと言って自分がそこに所属することは考えなかった。

ありとあらゆるところに宗教があり、莫大な人口がそれを信じ、共有し、それこそが社会的秩序を生み出す元になっている。それは素晴らしい共同体であると言える。

しかし、私が宗教を避けたのは、宗教は資本主義にはそぐわないということや、科学的ではないことや、合理的でもないことや、誰かを崇拝しなければならないことの嫌悪からだ。

宗教は思想そのものを支配する道具になる。信者は「否定できない教え」によってコントロールされるのだ。

もし何らかの宗教を信じて、その教義に親しみ、思考をそこに委ねているのであれば、人生はその思考に支配されてしまう。

別の言い方をすると、その宗教にマインド・コントロールされて、宗教の枠の中でしか考えられない人間になってしまう。

自分で何かを考えたのではなく、宗教組織が与えた「もの」を盲目的に受け入れて、ロボットかクローンのように反応するだけになる。

そうなったとき、何が問題なのか。

その宗教コミュニティにとらわれたら逃げられない

もし、信仰している宗教の教祖や親玉に当たる人間が右を見ろと言えば自動的に右を向くし、左を見ろと言えば自動的に左を見るし、誰かを殺せと教祖が言えば誰かを殺すことになる。

オウム真理教の地下鉄サリン事件はまさにその典型であった。そしてタリバンやアルカイダやISIS(イスラム国)もまた、そのような組織だった。

ヒエラルキーの上部が乗っ取られて邪悪な人間が立つと、そっくりそのまま下層部がロボットのように邪悪になる。

たとえば、先代が正しい人であっても、妙な人間が教祖の地位に成り上がったらどうなるのか。おかしいと分かっていても、盲目的に従ってしまう。

自分がその宗教を支配しているのでなければ、自分が支配されているということだ。

新興宗教だろうが伝統的宗教であろうが同じだ。キリスト教には神父や牧師がいて、イスラム教にはウラマーやイマームと言った精神的指導者がいる。

そして、祭事を司ったり人々を導くために組織があり、ヒエラルキー(上下関係)が存在する。

その宗教が組織になっていて執行部がいるのであれば、信者はある時に執行部の操り人形にされる。時には単なる捨て駒にされてしまう。

その宗教コミュニティにとらわれたら逃げられない。コミュニティに属していない人間を見ると排斥心を持つようになる。

逆に世間から排斥されると、どんどん組織や教義に頼るようになる。そして、自分の思考を奪われる。上層部が間違っていても、カリスマ教祖が狂ってきても、それが正しいのだと信じてしまう。

イスラム過激派も、キリスト原理主義者も、ヒンドゥー原理主義者も、オウム真理教も、組織を持った宗教は全部そうだ。上層部が、下層部をロボットのように動かすのである。宗教で神を盲信させ、神の名において反駁を許さない。

神という概念(コンセプト)にはまるで興味がない

両親がキリスト教を信じていて、社会が教会を中心にまわっていれば、そこで生まれた子供は生まれながらにしてキリスト教の思考を身につける。

そうすると、処女が懐妊して教祖キリストが生まれたとか、人類の罪を背負って死んだとか、そういう非合理的な話を真実と思い込んだり信じこんだりする。

さらに、それを否定する人間には敵意を抱いたりする。

何でもかんでも聖書に照らし合わせて、「これは神の予言だ」とか「黙示だ」とか言い始めることもある。進化論を認めなかったり、中絶を認めなかったり、避妊を認めなかったりする。

非合理と狂信に向かうのだ。

オウム真理教は麻原彰晃というひとりの男が教祖になって信者をコントロールした。外から見たら胡散臭い詐欺師にしか見えない麻原彰晃でさえ、それを盲信する人間がいることに多くの人々は驚いた。

非合理と狂信の中では、詐欺師でさえも神や仏に見えてしまうのである。誰かを崇拝すると疑う力を喪失する。

オウム真理教は反社会的組織だったので問題になったが、本当は「すべての宗教が信者を洗脳している」ことに人々は気がつかなければならなかった。

例外はない。神がいるのかいないのか。いるとしたらどんな姿かたちをしているのか。それは地域によって違う。神は人々が共有する「概念(コンセプト)」だからだ。

「みんなでこういうモノがいると一緒に信じて積極的に盲信しましょう」というのが宗教の基本だ。

そして、「同じものを信じているのだから、私たちは友人であり仲間であり運命共同体だ」と言って秩序を生み出しているのである。

タイには悪霊(ピー)がいるのは、それを信じる社会を受け入れば「我々は仲間だ」ということなのだ。

誰でも一人ぼっちは寂しいから、仲間になる引き換えにそれを受け入れようとする。受け入れれば共同体の仲間になれて、そこで暮らしていける。

そのかわり、共同体のために自分の「思考の自由」を捨てなければならない。そうやって思考が閉ざされていき、束縛されていき、時には組織そのものを盲信し、宗教の「捨て駒」になっていく。

私は誰も信じない自由も、自分が気に入ったものを信じる自由も、堕落に堕ちる自由もみんな欲しい。だから宗教を必要としていない。

これからも宗教を寄せ付けることはないし、所属することもない。当然だが、神という概念(コンセプト)にも、まるっきり興味がない。

それで私に何か問題があったのか。特に何もなかった。まるっきり神など信じていないが普通に生きていける。(written by 鈴木傾城)

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私は誰も信じない堕落に堕ちる自由が欲しいので、宗教を必要としていない。これからも寄せ付けないし、所属することもない。当然だが、神という概念(コンセプト)にも、まるっきり興味がない。

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