
「追い詰められた親」への追いつめられた状況は理解できるのだが、だからと言っても子供を道連れにするという決断は許されるものでもない。社会的には、このあたりで「死ぬことはないんだ」という強いメッセージと対策を出さないといけない時期に来ているように思える。(鈴木傾城)

プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)
作家、アルファブロガー。著書は『ボトム・オブ・ジャパン』など多数。経済分野を取りあげたブログ「フルインベスト」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」を運営、2019、2020、2022年、マネーボイス賞1位。連絡先 : bllackz@gmail.com
貧困、孤立、介護疲れ、家庭の疲弊
2025年から2026年にかけて、日本各地で一家が揃って命を絶つ事件が相次いだ。
神奈川県真鶴町の琴ケ浜海岸では、47歳の会社員と妻、8歳と6歳の娘2人の遺体が海で発見された。橋の上には一家の車が放置され、防犯カメラには海に飛び降りる人物が映っていた。
千葉県成田市では、66歳の無職の父親が知的障害のある11歳の長男を殺害した。「金がなく、食べるものもない。息子を1人で残せなかった」……父親はそう語った。
東京都西東京市では、36歳の母親が3人の子供を道連れに死んだ。長野県阿智村では、50歳の母親が13歳の長女と10歳の次男を殺害し、自らも命を絶った。
近隣住民はいずれもこれらの事件には「想定外だった」という反応であった。成田の父親について、隣人たちは「礼儀正しかった」「親子仲は幸せそうだった」と口を揃えていた。
西東京の一家も、事件前日まで夫と妻はLINEでやりとりをしていたのがわかっている。阿智村の母親も、外部から見れば普通の家庭を営んでいた。誰も、破滅の気配を察知できなかった。
一家心中は、日本で特異な頻度で発生する現象だ。警察庁の統計によれば、親が子を殺害する「親による子の殺害」は年間40〜60件前後で推移しており、そのうち無理心中がかかわるケースが一定数を占める。
自殺総合対策推進センターの分析でも、日本の親族間無理心中の発生率は他の先進国と比較して高い水準にある。数字の背後には、貧困、孤立、介護疲れ、障害を持つ子供を抱えた家庭の疲弊といった要因が積み重なっている。
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追い詰められた親たちの内側
千葉県成田市の66歳の父親は、妻を亡くしてから10年間、知的障害のある息子を1人で育てた。雨の日も自転車で片道5キロの通学路を送り迎えし、近隣住民からは「子煩悩な父親」として記憶されていた。その男が、息子の首を手で絞めている。精神的には限界であったのだろうか。
親が子を道連れにして死ぬとき、その親の頭の中には「愛情」と「絶望」が同時に存在しているはずだ。そんな中で、「この子を残して死ねない」という感情が、親としての責任感と結びついているように見える。
心理学では、この状態を「拡大自殺」と呼ぶことがある。自分の死を決意した人間が、自分の死後に残される者の苦しみを「先回りして解決しようとする」心理だ。
成田市の父親が「息子には知的障害があり、1人で残せなかった」と語ったのは、まさにこの論理の典型だったように見える。客観的に見れば、息子には生きる権利があり、父親以外の支援者や施設が存在した。
しかし父親の視野はすでに極度に狭まっており、「自分がいなければこの子は生きていけない」という確信だけがあったようだ。せめて、どこかに相談することができればよかったのだろうが、父親にはそれもできなかった。
仕事もなく、カネもなく、将来も見えない。深く、絶望的な孤立があったのだろう。
生活保護も受けられたはずだが、行政に助けてもらうのは「恥」と感じていたのかもしれない。実際、この父親のように、支援が必要な状態にありながら制度を利用していない世帯が相当数存在する。
一家心中は、救いようのない拷問のような経済苦と絶望の中で起こることが多い。子供のいる世帯の相対的貧困率は高水準なのは、以前から知られている。貧困は、人の思考の幅を物理的に縮めるのだ。
選択肢が見えなくなったとき、人は「死」を最後の解決策として選ぶ。
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「K字経済」が加速している
心中は昔からあった。明治・大正期には、没落した家の主人が家族全員を道連れにして死ぬ事件が社会問題として認識されるようになった。「一家心中」という言葉が新聞に頻繁に登場するのはこの時期からだという。
1970年代以降も、経済苦や介護疲れを背景にした一家心中は定期的に発生し続けた。高度経済成長が終わり、格差が拡大した1990年代以降も、一家心中は社会の裏側でひっそりと続いていた。
日本は豊かな国になったが、誰もが豊かなわけではない。社会から落ちこぼれる人たちはかならず出てくる。こうした人たちに子供がいると、「追い詰められた親が子を道連れにする」という事件も起きてくる。
アメリカでも親による子の殺害後の自殺は発生するが、その多くは離婚や親権争いがかかわるケースであり、日本のように「経済苦と孤立」を背景とするパターンとは性質が異なる。
韓国は日本と文化的に近く、儒教的な家族観を共有しているが、韓国でも一家心中の発生率は日本ほど高くない。日本に固有の何かがあるのは間違いない。
一家心中の報道が出るたびに、決まって「なぜ相談しなかったのか」「周囲は気づかなかったのか」「もっと早く支援が届いていれば」と報道される。児童相談所は機能していないのか?
2023年度の児童相談所への児童虐待相談対応件数は21万9170件と過去最多を更新した。しかし職員1人あたりが担当するケース数は国際基準をはるかに超えていた。慢性的人手不足が続いている。
現在は物価高が続く時代であり、この物価高によって「K字経済」が加速している。資産を持つ者はどんどん豊かになり、何も持たない者は物価高で経済的にも精神的にも追いつめられてしまう。
とすれば、これからも一家心中は増えてしまうのだろうか……。
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子供は親の絶望のために死ぬべきではない
一家心中がやりきれないのは、親と一緒に死んでいく子供たちには何の落ち度もなければ死ぬ理由もないことだ。彼らは自ら死を選んだわけではない。神奈川県真鶴町の琴ケ浜海岸で死んでしまった8歳と6歳の姉妹は、親に連れられて海に入った。
11歳の長男は、父親に首を絞められた。9歳と11歳の兄弟は、母親に首を絞められた。13歳の長女と10歳の次男も同様だ。
客観的に見ると、これらはすべて殺人であり、被害者は子供だ。
「追い詰められた親」への追いつめられた状況は理解できるのだが、だからと言っても子供を道連れにするという決断は許されるものでもない。子供はひとりの独立した生命であり、親の付属物ではないからだ。
社会的には、このあたりで「死ぬことはないんだ」という強いメッセージと対策を出さないといけない時期に来ているように思える。
追い詰められたとき、人間の思考は著しく狭まる。「もう終わりだ」という極度の絶望が視野を狭くしてしまい、他の選択肢が何も見えなくなる。本当は「終わり」ではなく、冷静に助けを求めれば何とかなる問題だったのだ。
生活保護は、申請すれば受給できる権利だ。2024年時点で受給世帯数は165万世帯を超えており、経済苦で追い詰められた人が使うべき制度としてすでに存在している。「恥だ」という感覚は理解できる。しかし子供がいるならば、恥も何もない。
他にも、児童相談所もあれば、社会福祉協議会もあれば、NPOの生活相談窓口もある。手を伸ばせば届く支援が、すでに社会には存在している。それでも「人に頼れない」と感じるなら、せめて子供だけでも施設に託すべきだろう。
大人が死を選ぶのであれば、社会はそれを完全には止められない。ある意味、それは「本人の自由」だと突き放すこともできるかもしれない。しかし子供を道連れにする自由は、どんな親にも与えられていない。
親は、絶望のために子供を道連れにすべきではない。







コメント
お金がなくても命の価値は変わらないし
死ぬ必要はないと言うのは真理ですが
お金がまるでないという状態は
負のループに入ってしまうので
ある意味死ぬより辛いことかもしれません。
まったくその通りで、貧困に落ちていけばいくほど視野狭窄にはまって精神的に追いつめられてしまいます。その生殺しの状態が苦しいわけです。死はそれに対する解放のように思えてくるのだと思います。いずれにしても悲劇ですね。
なんとかしなければと思っているうちに限界に達してしまい、もう子供を救う行動力が失われて「一緒に死ぬしかない」となるのでしょうか。望まぬ妊娠をなんとかしなければと思っているうちに出産してしまい、産まれた赤ちゃんを殺めてしまうのと心理的に近いような気がします。限界の見極めができないので助けを求めるタイミングを見失うのかな。「助けて」と言えない空気が日本にはあるような気がします。
今後、日本は物価上昇が続きます。ホルムズ海峡の封鎖が解かれても、いったん走り出したインフレというベクトルは消えないと見ています。そうすると、ますます追いつめられていく人たちが増えていくわけです。弱肉強食の資本主義のどん底で救いを求めている人たちを自然と救済できるような社会になってほしいですね。