
貧困撲滅は最初から不可能だった。世界の所得の83%を上位20%が独占し、下位20%はわずか1%。富と貧困は同じコインの表裏であり、片方だけを消すことは誰にもできない。世界銀行も「2030年までの極度貧困撲滅は達成不可能」と認めた。貧困は今後も消えることは絶対にない。(鈴木傾城)

プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)
作家、アルファブロガー。著書は『ボトム・オブ・ジャパン』など多数。経済分野を取りあげたブログ「フルインベスト」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」を運営、2019、2020、2022年、マネーボイス賞1位。連絡先 : bllackz@gmail.com
「貧困との戦い」に勝てると思ったのか?
2015年9月、ニューヨークの国連本部で193カ国の首脳が署名した文書がある。「持続可能な開発目標(SDGs)」、その第1番目に掲げられたのが「2030年までに極度の貧困をあらゆる場所で終わらせる」という宣言だ。
極度の貧困とは1日2.15ドル、日本円にして約320円以下で生活することを指す。この約束に、当時の世界は本気でそう思っていたのだ。
根拠は何だったのか。それは、1990年から2015年にかけて、世界の極度貧困者数は23億人から7億3000万人へと大幅に減少したことだ。
年間およそ6300万人ずつ減っていた計算になる。この削減ペースが続けば、2030年までに極度貧困率はほぼゼロに近づくというのが机上の計算であった。世界銀行もこの目標を自らの「最重要ゴール」として採用している。
この楽観論には、もう一つの根拠があった。アジアの奇跡だ。中国では1990年時点で人口の70%以上が極度の貧困状態にあったが、2019年にはほぼゼロになった。インドネシアは2.5%、ベトナムは0.7%まで低下した。
東アジア・東南アジア・南アジアの経済成長が、数億人を貧困から引き上げた。「経済成長が貧困を解決する」という公式が、エリートたちには機能しているように見えたのだ。ビル・ゲイツもしきりに「貧困は撲滅できる」と言っていた。
だが、この楽観論には欠陥があった。
貧困削減の成果の大部分は、アジアという特定の地域の成長に依存していた。アフリカでは、人口の35%が極度の貧困ライン以下に置かれたままだった。それに、紛争地帯や統治が機能しない国々では、経済成長なんか機能しない。
それで、どうなったのか?
[復刻版]絶対貧困の光景: 夢見ることを許されない女たち (セルスプリング出版)
インドの貧困地獄から這い上がれない底辺で生きる女たちの壮絶な日々を追う!インドの貧しい女たちの生き様とは?
「空想」が現実の前に吹き飛んだ
2030年まであと4年だが、現在の世界銀行の最新予測では、2030年時点で5億7500万人がいまだに1日2.15ドル以下で生活していると試算されている。
貧困の撲滅という「空想」が現実の前に吹き飛んだのは2020年である。新型コロナウイルスのパンデミックだ。2020年単年で、極度の貧困ライン以下の人口は7000万人以上増加した。
高所得国は財政出動と社会保障によって貧困の拡大をある程度抑え込んだかもしれない。だが、低所得国は悲惨だった。ロックダウンで農村の出稼ぎ労働者が収入を失い、国境閉鎖で海外からの送金が途絶えた。
パンデミックは、もともと脆弱であった国と人々を集中的に破壊したと言える。
パンデミックの傷が癒えない2022年2月、ロシアがウクライナに侵攻した。この戦争が途上国の貧困層をさらに追い込んだ。小麦と燃料の価格高騰によってだ。
ウクライナとロシアは合わせて世界の小麦輸出の約30%を担っていた。スーダンなどは、小麦輸入の約80%をロシアとウクライナに依存した。そのため、この戦争がスーダンの低所得層には致命傷になった。
ソマリアでは生活必需品の価格が少なくとも20%上昇した。飢餓寸前の国々において、食料価格の2割上昇は即、死者数の増加を意味する。
エネルギー価格の高騰は肥料価格にも波及した。肥料の主原料は天然ガスであり、そのコストが跳ね上がったことで、アフリカ・南アジアの小規模農家は肥料を買えなくなった。
そこに気候変動が重なる。アフガニスタンでは2025年8月の地震後に深刻な旱魃が続き、ミャンマーとバングラデシュのロヒンギャ難民キャンプでは繰り返す洪水が農業を壊滅させた。南スーダンでは暴力と洪水が重なり、人口の57%にあたる770万人が食料危機レベル以上の状態に置かれている。
ストレッチマーク: 真夜中の女たちが隠していたこと
鈴木傾城の短編小説。タイの首都バンコクの歓楽街で、ノックというバー・ガールと出会い、親しくなる。彼女をバーから連れ出すには、彼女の親友ダーウの許可が必要なのだった。
援助プログラムが停止された
2025年1月20日、ドナルド・トランプが大統領に就任した当日、すべての対外援助プログラムを即時凍結する大統領令が発令された。猶予期間はなかった。その日のうちに、世界130カ国以上で動いていたアメリカの援助プログラムに「停止命令」が下った。
USAIDは1961年に設立され、60年以上にわたってアメリカの人道支援・開発援助の中核を担ってきた機関だ。2024年時点での予算規模は680億ドル、215カ国でマラリア予防、HIV治療、母子保健、食料支援、教育など数百のプログラムをおこなっていた。
その機関が、2025年2月23日深夜をもって事実上閉鎖された。アメリカが抜けた穴埋めの負担を恐れたのか、イギリス、ドイツ、カナダも相次いで援助削減を発表・実施することになった。
これによって最も深刻な打撃を受けたのがHIV対策だ。PEPFAR(大統領エイズ救済緊急計画)は2003年にジョージ・W・ブッシュ政権下で創設され、これまでに推計2600万人の命を救ってきた実績がある。
マラウイはHIV予防プログラムの88.5%、ジンバブエは82.7%、モザンビークは81.8%をPEPFARに依存していたが、それが吹き飛んだ。医療施設の約40%が何らかの機能停止を経験し、80万人以上のHIV陽性者に影響が及んだ。
南アフリカ全土では資金援助を受けていた医療施設の70%への資金供給が停止し、性暴力対応プログラムとHIV予防プログラムはすべて終了した。8000人以上が職を失い、進行中の臨床試験も止まった。
アフリカではやっとHIVの爆発的流行から脱するところまでいっていたが、すでに状況は後戻りしつつある。
「治療が始まる以前の時代に逆戻りするかもしれない」と現地の代表者は述べている。アフリカはまたもやHIV・エイズの爆発的流行、そしてあらゆる風土病・伝染病が広がっていく大陸になるだろう。
そして、それはアフリカの貧困をより広く、深いものにしてしまう。
コルカタ売春地帯: インド最底辺の女たちとハイエナの物語 (セルスプリング出版)
インド最底辺の売春地帯に沈没していた私は、ある日ひとりの女と出会った。彼女は「人を殺した」という噂があった。
もちろん、日本も貧困は際立っていく
世界銀行はすでに「2030年までの極度貧困撲滅は達成不可能」と認めている。最初から無理な目標であったが、それを公に認める形となった。これについて私は驚きはまったくない。
私自身はもう10年も20年も前から「貧困は絶対にこの世から消滅しない」と主張してきたし、今もそれは1ミリも譲らない。世界銀行が何を言おうが、経済学者がどう分析しようが、貧困は世の中から消えることがない。
貧困が消えないのは、別に不思議でも何でもない。人類は資本主義社会によって文明を構築しているのだが、その資本主義は放っておけば100%経済格差が広がっていくシステムだからである。
豊かになる人がいるのであれば、逆に貧しくなる人がいる。
富と貧困は資本主義の中では同じ一枚のコインの表裏として存在している。現に、世界の所得の83%を上位20%の人口が独占し、下位20%はわずか1%しか受け取っていない。格差が生まれる構図は資本主義である限り消えることがない。
もちろん、日本も貧困は際立っていくだろう。
「極度の貧困」とは無縁に見えるこの国でも、食事を満足に取れない子供、奨学金という名の借金を抱えて社会に出る若者、老後の蓄えがないまま働き続ける高齢者が、すでに大量に存在する。
日本の貧困は見えにくい。
日本人は体裁を保ちながら困窮するという形を取るため、数字に表れにくく、政策の優先順位にも上がりにくい。しかし、そうしているあいだに足元の貧困は静かに深化している。
日本もいよいよインフレが定着する社会になっていくが、そうなると低所得層が大きなダメージを受ける。社会がこの低所得層を支えることができなくなったら、彼らは一気に極貧化して路上に満ちあふれることになるだろう。
たとえば、生活保護の制度が破綻した瞬間に日本は絶対貧困層の群れが社会に登場する。日本の社会保障は絶対に破綻しない、日本の財政も破綻しないと言っている経済学者は多いが、彼らの主張が正しいことを信じたい。
さもなくば、日本の社会の底辺は地獄の様相と化すだろう。







コメント