小説『背徳区、ゲイラン』はシンガポールの公認売春地区(Red-Light District)に立つセックスワーカーの話だが、この中には私が惹かれている女性をひたすら敵視する相手が何人か出てくる。
そのうちのひとりが「カーラ」という、とても派手な容姿をした女性だった。
この小説は、実際にゲイランで私が出会ったセックスワーカーの女性たちや、私の体験や、この当時に起きていた実際の事件などを組み合わせて作った小説なので、登場人物はひとり残らずモデルがいる。
私は、今でもここで好きになったひとりの女性が忘れられないのだが、彼女のことを思い浮かべると、どうしてもセットでカーラのことも思い浮かぶ。
カーラは本当に、これまで見たことがないほど他人を嫌う性格で、とくに太客をつかんでうまくやっている仲間を異常なくらい敵視していたのだった。嫌っている相手にトラブルがあると、彼女はよろこんだ。まさに「他人の不幸は蜜の味」である。
『背徳区、ゲイラン』に書いたカーラの姿は、私の想像ではない。カーラは本当に、私の好きだった女性を蛇蝎のごとく嫌っていて、彼女が不幸になることを願っていた。願っていただけでなく、不幸になるように画策もしていた。
日本人はそういうネガティブな感情を表に出す人は少ないが、外国人の中にはカーラのようにむき出しの人がそれなりにいる。それでも、カーラほどあからさまにそうした感情を表す女性は、なかなかいなかったように思う。だから、逆にカーラには強い印象が残っている。
しかし、そうした「他人の不幸は蜜の味」の感情を持つのはカーラだけだろうか。
人の心の中は誰にもわからない。もしかしたら、他人の不幸が大好きな人は、私たちが思っている以上に多いのかもしれない。それは、著名人がスキャンダルに巻き込まれたり、失脚したり、破産したり、離婚したりするのがマスコミの「メシの種」になることでもわかる。
多くの人は「他人の不幸」に、いいしれぬ幸福とエクスタシーを感じている。