自分が生き残るために弱者を見捨てたり切り捨てたりする「能力」が求められる?

自分が生き残るために弱者を見捨てたり切り捨てたりする「能力」が求められる?

いまや、傷ついた人は「存在価値はない」と笑われるだけとなった。強者が「あんたらは弱者だよね」と指さして公然とマウントを取ってあざ笑うのだ。弱肉強食化していく社会の中では、その中で活き活きと弱者を攻撃できるサイコパスのような人格に需要が生まれる。(鈴木傾城)


プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)

作家、アルファブロガー。著書は『ボトム・オブ・ジャパン』など多数。政治・経済分野を取りあげたブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」を運営、2019、2020、2022年、マネーボイス賞1位。 連絡先 : bllackz@gmail.com

這い上がろうと思っても這い上がれない

2000年代からは非正規雇用も増加して、若者が低収入で不安定な労働環境でしか仕事が見つからなくなり、社会の底辺に落ちこぼれる若者がどんどん増えた。

ちゃんとした住処すらも契約することができず、シェアハウスやネットカフェで寝泊まりするホームレス寸前の若者さえ珍しくなくなった。彼らはかろうじて路上に寝るところを回避しているので、ホームレスにはカウントされていない。しかし、限りなくホームレスに近いレベルにある。

今の若者が何とか普通に生きるためには学歴が必要なのだが、高等教育の費用が高騰する中、奨学金返済に苦しむ学生や、アルバイトと学業の両立に苦労する学生が増えている。そして、大学を出ても借金まみれで貧困層に直結してしまう若者もいる。

では、40代や50代は経済的に恵まれているのかというと、まったくそういうこともなく、バブル崩壊後の就職難の時期に社会人となった世代で、正規雇用の機会を逃した人たちは、今でも不安定な雇用状況にあって苦しんでいる。

では、高齢層は逃げ切ったのか。いや、少子高齢化で社会的危機が起こることが数十年も前からわかっていたことなのに、無能な政治家は何の対処もしなかった。

そのため、賦課方式の年金制度が危機に陥っており、政府は年金の他に2000万円を貯めておけとか、死ぬまで働けとか、自分で投資して何とかしろとか、そのような政策を打ち出しはじめている。

こうした状況の中で人々は余裕を失い、自分のことで精一杯となった。今後はより強烈かつ過酷な「弱肉強食の社会」が到来する。蹴落とされる人も増えれば競争に敗れる人たちも増えるのだが、大半が蹴落とされる側となるのが世の常だ。

政治家の無策によって日本の経済環境は著しく悪化し、人々は生き残りのために激しい競争にさらされる。もともと資本主義に馴染まない人たちはいるのだが、彼らは欠陥扱いされて社会のどん底にまで蹴落とされる。

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生き残るために手段を選ばない

弱肉強食の社会とは「自分が生き残るために手段を選ばない社会」である。これが突き進んでいくと、自分が生き残るために弱者を見捨てたり切り捨てたりする「能力」が求められるようになる。

うかうかしていれば自分が蹴落とされる社会である。そんな社会で何とか生き残るためには「協調なんかしているヒマはない。自分が蹴落とされるなら自分から蹴落としてやる」と考えるようになる。誰に対しても攻撃的になり、マウントを取るようになる。

世の中には競争を好む人もいるのだが、そうでない人も膨大に存在する。そのため、このような社会のあり方に馴染めない人々は犠牲者になる。犠牲者になるというのはどういうことか。それは要するに、失敗したら容赦なく蹴落とされるということなのだ。

寛容な社会では、競争に長けていない人であっても仲間と助け合ったり、互いに手を差し伸べながら生き残れる。しかし、利己的で自己中心的な社会がやってくると、競争が苦手な人は押しのけられるようになる。

競争社会に馴染めないのに競争させられ、しかもそこから降りることができない。精神的にキツい状態だ。この傾向は今後さらに先鋭的になっていき、温厚な人々の精神を確実にむしばんで荒廃させていく。

そして、荒廃していく社会の中で、限界に達した人から心を病むようになっていく。

この30年、日本の社会は政治の無策によってバブル崩壊による社会の環境悪化がじわじわと続いていたのだが、こうしたこともあって自己責任論や弱者切り捨て志向が広がっていき、うつ病患者は100万人をとっくに超えている。

風邪や病気で身体が壊れるように、心や感情が壊れて起き上がれなくなるほど重度の病気になる人が日本だけでも100万人もいるのだ。今の社会は競争社会をより激化させるので、やがて心が破壊された人々の群れが広がるだろう。

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激甚化していく競争社会

弱肉強食となっていく社会の中では「攻撃性」が過激化していく。そのため、子供たちの社会でも凄惨ないじめが発生し、それを苦にした自殺も増えていく。

「いじめ」とは集団の攻撃性がひとりの子供に集中した状態を指す。社会が不安定化すると、人々はトゲトゲしくなり、ストレスを抱える。子供たちもそうした空気を読み取って攻撃的になる。

集団社会が攻撃的になると、その攻撃性はいつでも自分に向けられる可能性が出てくる。それは恐ろしいことだ。では、自分が攻撃の犠牲にならないようには、どうしたらいいのか。

答えは簡単なのだ。「自分以外の誰か」をスケープゴートにして、常に集団社会の攻撃性がそこに向かうようにしたらいい。

自分を守るために犠牲者を誰にするのかを集団が無意識に選び、そして、もっとも弱い者をみんなで攻撃することになる。これは、動物が持つ本能といっても過言ではない。そのため、弱者は徹底的にいじめられる。

集団の中でもっとも弱い人間を選ぶ。
攻撃を常にその弱者に向け続ける。
そうやって自分に攻撃が向かないようにする。

抑圧された閉塞感の中では、こうした残酷な集団心理がかならず発生するのだが、じつは攻撃される側だけでなく、攻撃する側もストレスになっていく。

自分が弱者になってしまえば、一転して自分が激しい攻撃にさらされることになるからである。自分の番にならないためには、常に自分よりも弱い人間を探し出して攻撃しておかなければならない。

この社会構造の残酷なところは、「もうそこから降りたい」と思っても降りられないことだ。社会のシステムの中に弱肉強食の論理が組み込まれているので、死ぬまで誰かを攻撃し、戦い続けなければならない。

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弱者を攻撃できる人間に需要?

自分が犠牲にならないために、弱い人間を攻撃することを余儀なくされる現代人は、間違いなく誰もが神経をすり減らし、精神的にボロボロになっていく。

ところが、生まれつき神経がタフで、残酷な「いじめ」が横行する世界になっても、まったく動じない人もいる。動じないどころか、他人を攻撃してつぶすことに快楽すら得る人もいる。

逆に、こうした社会のあり方に心が傷つく人もいる。しかし、「傷つくような人は弱い人間」と、冷たく認定されるだけだ。強者が「あんたらは弱者だよね」と指さして、公然とマウントを取ってあざ笑う。

弱肉強食化していく社会の中では、その中で活き活きと弱者を攻撃できるサイコパスのような人格に需要が生まれる。

社会はこれからさらに残酷に、そして過激になっていく。

そのため、弱者に対して平然とマウントを取れるサイコパスこそ「現代にふさわしい性格」と人々は思うようになっている。誰も認識していないが、現代社会はサイコパスのような残忍な人間が求められている。

時代は荒廃していく一方だから、優しい性格でいたら損するばかりだ。そのため、現代社会はこれから「もっと残忍になって弱者をいじめられるようになれ」と私たちにそれを押し付けてくるようになる。

今の社会は、荒んだ環境でも生き残れる「サイコパス」が望まれている。

そのような人間を作る練習台がSNSだといえる。そこでは相手を言い負かしたり、マウントを取ったり、攻撃したり、嘲笑したりするような「残酷さ」が賞賛されるようになり、必須となる。

弱者をあざ笑い、弱者を見くだす能力を身につけた人は、自分がいかに精神的に鈍感かを世間にアピールするようになる。

そんな社会は、果たして正常なのだろうか? もちろん、それは正常ではない。私はそんな社会が嫌いだ。しかし、時代はあきらかにその方向に暴走しているということには注意しておきたい。

こんな社会の中で、あなたはタフに生き残れるだろうか?

病み、闇。
病み、闇。: ゾンビになる若者、ジョーカーになる若者(鈴木傾城)

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