◆シャワールームに女が入り、見知らぬ女が静かに出て来た夜

◆シャワールームに女が入り、見知らぬ女が静かに出て来た夜

タイ編
人生長く生きていると、恐怖を感じて忘れられない怪奇的な夜がある。恐らく誰でも思い出しただけでも身が震える恐怖の夜の思い出くらいはあるだろう。

パタヤで、そんな目に遭った。最初からペイバーしてはならない女をペイバーしたことを知っていた。

そして、何か不吉なことが起きそうな予感も前兆に感じていた。にもかかわらず、恐怖で不意打ちに遭った。

人間は太陽が必要だ

その日は朝から大雨で、雨音が轟音のようになって聞こえた。窓の外を見ると、豪雨と水煙で何も見えないほどだった。

パタヤはここ数日いつも雨に降られていて、いつも道が川のようになっているような状態で、今日もそうなのかと思うとうんざりした。

連れの女性が帰るというので金を払って彼女を返し、再びベッドに転がって、次に目が覚めるともう夕方になっていた。

完全に生活のリズムが狂ってしまっており、そのせいで目が覚めても30分ほどベッドに腰かけて何もしないで頭を抱えていた。

もともと夜型なので昼夜逆転が基本になっている。しかし、昼間も起きていることも多いので規則正しい夜型ではない。寝る時間も起きる時間も決まっていない。これは悪い夜型だ。

疲れ果てたときに、崩れ落ちるようにベッドに倒れて寝る。それが朝であったり、昼であったり、夜であったりするので、起きると何時間寝たのか寝なかったのかが分からない。

要するに、生活のリズムがめちゃくちゃになっていた。

夜型でも昼型でも規則正しい生活をしていると、身体がリズムに馴染んで自律神経が安定するようだ。しかしリズムが乱れてくると目に見えて疲れがたまるのが分かる。

精神的にもっともダメージを受けるのが夕方に起きるリズムになることだ。どれだけ寝たとしても夕方に目が覚めるパターンでは健康になれない。

これは夜の商売をしている女たちにも言えるようで、パタヤでいろんな女に聞いてみると、だいたい寝るのは夜中の4時か5時頃で、起きるのは12時か13時だと決めているという。

彼女たちの仕事は6時か7時に始まるので、本当は夕方まで寝るリズムがあってもいい。そういう女もいると思う。しかし、だいたいの女は夕方起きる生活は「良くない」と言う。

“I want see the sun.”
(太陽が見たいから)

人間には太陽が必要だ。だから、無理してでも昼間までには起きていなければならない。

自分で悪いパターンにはまっていることを自覚しつつ、どうしようもなかった。窓の外を見ると、まだ雨が降っている。しかし、腹が減っていたので部屋から出たかった。

売春ファーストフード

パタヤは本当に特異な場所だ。もうタイでハイエナがいられるのはパタヤくらいしかなくなったのかもしれないとも思う。

かつてバンコクはアジアでも有数の売春地帯だった。パッポン通りやスクンビット通りは幻惑されるほど蠱惑的なムードがあった。

しかし、今はもうどちらも売春地帯ではなく、歓楽街に進化して、さらには観光地へと変貌しつつある。これらの通りはすでに土産屋やTシャツ屋などに占拠されて、売春地帯ではなくなっているのである。

ナナ・エンターテーメント・プラザとソイ・カウボーイは、かろうじて売春地帯の面目を保っている。

しかし、どちらも薄暗く沈んだ売春地帯というよりも、どこか商業的になって、女たちのルーズな息吹きを感じられなくなってしまった。

男が来るとすぐに酒を出し、コーラをねだり、女の誰かを選ばせて、さっさと売春させて、次の客に同じことを繰り返す。パッポンでやっている「売春の流れ作業」的な感じが強くなりつつあって、それが今後の方向性なのだろう。

これは「売春ファーストフード」だと思っている。それもまた歓楽街が生き残るひとつのビジネス手法だ。

もちろん効率的だからそういった効率性を好む人は今のパッポンやナナやカウボーイはいい。

しかし、あちこちはしご酒して明け方まで女に愚痴を言って過ごすような男たちにはもうそこに居場所がない。しかし、パタヤにはまだそれが残っている。

ただ、ウォーキング・ストリートは「売春ファーストフード」なので出入りしてはいけない。それを外せば、昔のだらだらとした雰囲気が残っている。風前の灯火かもしれないが、まだ堕落を味わえる。

あなたが好きなんだけど、ごめんなさい

適当なところで食事を採っているうちに雨も小降りになってきたので、適度に濡れながら街を歩く。

雨の日は男たちも早々と女を決めて帰るか、もう最初から売春地帯に行くのはあきらめるので、女たちはみんな暇そうにしている。オープンバーはイスもカウンターも濡れていて居心地は悪く、だいたい女が休みを取るのもこんな雨の日だ。

ビーチロードに出てぶらぶら歩いていると、いつも生演奏をやっているコーナーのバーからフランク・シナトラの「マイ・ウェイ」が聞こえてきた。

マイ・ウェイは珍しくないのだが、それを女性が歌っているのが珍しい。しばし聞き惚れていると、やがてひとりの女が座らないかと薦めてきた。

しかし、ちょうどタイミング悪く歌が終わる頃だった。彼女の誘いを断って、その奥の屋根のある方に入っていった。

あまりここを通ることはないのだが、雨の日はやはり屋根があるところのほうが落ち着いて座ってられる。この奥はL字型になっているのだが、ちょうどその角の左側のバーから女が声を上げて誘ってきた。

“Hallo. welcome!”(ハロー、いらっしゃい!)

振り返ると、ほとんど普段着と言っていいくらいのラフなTシャツとジーンズの女性だった。

あまり化粧っ気がなく、特に際立って目立つ女性でもなかったが、そのカジュアルな格好とごく普通の女性の普通の優しい笑みが気に入って棒立ちになった。

するとイスに座っていた別の女に捕まえられて店に引きずり込まれた。

“One Drink, O.K.?”(一杯いいでしょ?)

うなずいてカウンターに座ると、最初に呼び止めた女がニコニコしながら寄って来て、何を飲むのか、どこから来たのかと尋ねる。

彼女に答えていると、奥に座っていたひとりの白人(ファラン)がじっと見つめられた。目が合うと、男は黙って目をそらす。

しばらく彼女と話していると、また男はこちらを見るが黙って目をそらす。しばらくして、その視線の意味を悟った。

白人は彼女を狙っていたのだった。落としたかったのだろう。こちらの視線の動きで、その白人もまた日本人が状況を理解したのを悟ったようだった。

そして、ふたりの男の視線や表情の動きは彼女も察して、彼女は困ったように笑った。

“I like you, but I”m sorry.”
(あなたが好きなんだけど、ごめんなさい)

まったく問題がないと答えて、彼女をあきらめた。たまに先客があるときもある。彼女を失うと、もうこのバーに興味を失って、立ち去ろうと思った。

マネキンの女

しかし、ふとひとりの女性がショーウィンドウのマネキンのような人工的な感じの雰囲気を漂わせながらじっとこちらを見ていることに気がつく。

目が合っても彼女は目をそらさない。背筋を伸ばし、胸を強調し、足を組み、男が自分の身体をじろじろ見つめるのを待っていた。

彼女に人工的な雰囲気がすると思ったのは、厚化粧のせいもあったが、微妙に顔を傾げた上に姿勢正しく背筋を伸ばして身動きしないせいだ。

また、シャンプーのコマーシャルに出てくるモデルのようなストレートの長髪も何となく人工風な感じを醸し出していた。着ている服はボディコン風のワンピースで、完全なるグリーン一色だ。

あまりに厚化粧で年齢が読めない。20代にも30代にも見えた。それほど若くないのは分かるのだが、とらえどころがなかった。美人かどうかと言われれば美人の範疇に入るかもしれない。

その奇妙さが際立っていて、美しさに惹かれるよりもむしろ異常なものを遠ざけたいときの嫌悪感のほうが強かった。

レディーボーイなのかとも思ったが、華奢な身体はそうではないことを窺わせた。その腕の細さや指や骨格は男のものではない。

しかし、マネキンのごとく身動きをせず、声もかけず、しかし男を凝視したまま目をそらさない。「おかしな女」だというのは確かだ。

こういった女は往々にして性格までエキセントリックである。エキセントリックというのは「風変わり」「奇妙」「奇人」「変人」というニュアンスをすべて含んだ言葉だが、格好と態度を見ているだけで、それが見て取れた。

一言も話をしていないのに、この不思議な女をペイバーすることに決めた。

立ち上がると、最初の女がやってきて再び「ごめんなさい」と謝る。「それは問題ない」と答え、マネキンの女を見ながら「あの女をペイバーする」と言った。

驚いた彼女はマネキンの如く動かない女を見つめて絶句した。その表情でとんでもない女を選んだという確信を得た。

確かに彼女とは一言も話さないままペイバーを決めたが、彼女はそれに驚いているのではなく、一番ペイバーの対象にならない女を選んだことに驚いているのだった。

「キム! キム! 彼はあなたをペイバーしたいそうよ」

彼女が叫ぶと、マネキンの女は突然、予測もしないような素早い身動きで立ち上がった。その動きもまた不安を感じさせた。

変わった女には興味があったが、見ているだけでも分かる彼女の異様さがどのような結果を生み出すのか分からない。しかし、思い直そうとは思わなかった。奇妙な女なら、すでに山ほど知っている。

しかし、さすがにオールナイトで彼女をペイバーする勇気はなかった。

異様さが突出している行動

霧雨の中を歩いた。キムと手をつないで、いろいろ質問する。キムは簡単な英語は分かっているようだったが、何も答えないか、イエスかノーかだけしか言葉を発しなかった。

そして、ほとんど表情を変えずに、ただ真正面を凝視しているのだった。

そのままホテルに入ると、部屋の中はベッドメイキングも頼まないで寝ていたので、シーツもめちゃめちゃでバスタオルも床に落ちたままになっていた。

我ながらひどい有様だと思ってキムの表情を伺うが、彼女は無表情を崩さなかった。化粧は、バーで見ていた以上に厚いことに気づく。

ベッドに身体を投げ出すと、彼女は部屋の隅のイスに目をやって、黙って座ってまたマネキンのようになる。

男と女が売春の契約をして、部屋に入って、これから堕落した関係が始まるというのに、キムはそういう素振りをまったく見せず、ただ気味悪く黙って座って虚空を見つめている。

その姿がまさにバーで見た彼女とまったく同じ形だった。まさにマネキンのようだった。不安が絶頂に達していて、その異様さに恐怖すら感じた。

もしかして、彼女はエキセントリックというよりも、精神が壊れているのかもしれないとも考えた。どちらなのか分からなかった。

“Will you take a shower?”
(シャワーでも浴びるかい?)

浴室を指さすと、彼女はものすごい勢いで立ち上がり、床に落ちたままのバスタオルを拾ってパンパンと音を立てて埃を払い、それから黙ってバスルームに消えていった。

まったく動かないマネキン・スタイルから、突如として早回しに動くその一連の行動は彼女の癖なのかもしれないが、それも異常性が感じられて恐ろしかった。

部屋は薄暗く、彼女の顔形の陰影も濃かった。それも悪かったのかもしれない。

知らない女がシャワールームから出て来た

たまに念入りにシャワーを浴びる女性がいて、そういう女性は10分経っても20分経ってもシャワールームから出てこないことがある。キムもそうだった。

シャワーを使っては止め、使っては止めている音は聞こえるのだが、まったく出てくる気配がない。

普通なら声をかけるのだが、今シャワールームを使っているエキセントリックな女には何て声をかけていいのか分からず、ただ黙って待っていた。

何が起きるのか分からないから期待もムードもない。まさか武器を持って襲いかかってはこないだろうが、場合によっては危害を加えられるかもしれないとも考えた。

何が起こってもおかしくない雰囲気があった。まったくタイの女にこんな緊張感を感じさせられたのは初めてかもしれない。世の中は自分が考えもしないこともあるものだ。

そんな不安感の中で待っていると、突如としてシャワーの音が止んで長い静寂が降りた。いや、彼女が身体を拭いているかすかな音はするので静寂でもなかったかもしれない。

やがて、ガチャリとシャワールームのドアが開く音がしてひとりの女が全裸のまま姿を現したが、その姿を見て仰天してベッドの上で岩のように固まってしまった。

今までどんなに何かに驚いても声を上げることはなかったと思うが、このときは「えっ!」と腹の底から叫んでいた。

まったく見も知らぬ老婆のような女がそこに立っていた。

ベッドに潜り込んできた老婆

このとき、どれくらい驚いたのかというと、あまりの恐怖に心臓が一気に収縮し、足の先から指の先までビーンと痺れてしまったほどだった。

妙な喩えだが、あまりにも強く心臓が縮み上がったために、ものすごい量の血液が大津波のように毛細血管まで押し寄せたという感じだった。

心臓発作だとか脳溢血というのは、こういう状況下で起きるのだろう。それほど、驚いていた。「心底」驚いていたと言うべきかもしれない。

ひとりの女をホテルに連れて帰り、彼女はシャワールームに入って静かに出てくると恐ろしいまでに醜い女が薄暗がりの中で立っている。まるでホラー映画さながらだ。

薄暗がりに立つその老婆は、黙ってこちらを見つめて一言も言葉を発しない。

しかし、急にベッドに擦り寄ったかと思うと動物のように素早い身のこなしでベッドに潜り込んできた。驚いてベッドから弾け飛び、浮き足立ってベッドに潜り込んだ女を凝視していた。

この女はキムではないと思った。しかし、その一連の特徴ある動きは姿こそ違うが、まさしくキムと同じだった。

キムは色白だったはずだが、その女は黒い肌をしていた。キムは30代くらいに見えたが、目の前の女性はどう見ても50代はとっくに過ぎた顔だった。キムはストレートの長髪だったが、目の前の女は縮れたような短髪だった。

走ってシャワールームをのぞき込み、キムが隠れていないのを確認し、洗面台の横に畳まれたグリーンの服や、ウィッグ(かつら)が置かれているのを見て、やっと事情が飲み込めた。

ベッドに潜り込んだ女は、まさにキムだったのだ。

女が「女装」という変装をする

化粧が女を「化けさせる」のを知っていたつもりだった。

女が整形手術さながらに厚化粧をして変装するのを分かっていたつもりだった。しかし、本当は何も分かっていなかったのかもしれない。

女が本気を出して化粧をするといったいどれほどまで変わるのか分かったような気がした。整形手術をしなくても、女は完全に自分の顔を変えられる。魔術のように10歳も20歳も年を若く見せることができる。

男が「女装」してレディーボーイとして美女になることができるのであれば、歳を取った女もまた「女装」してセクシーな服を着て美女になることができて当然だ。

「若く美しい女」という売春地帯で売れるターゲットがあって、それに外れる女は、「変装」してそれに合わせるのである。

その「変装」が整形手術だったり化粧だったりウィッグ(かつら)だったり、ファッションだったり、そのすべてだったりする。

キムの本当の姿は、60歳に近い50代で、髪は短く、シワやシミが顔にあって、乳房も腹も垂れ、若さを失った女だ。

しかし、そんなキムでさえ厚化粧してウィッグをかぶってセクシーな服を着て胸をブラジャーで上げ底にしてしまえば、「美しい女」になってしまう。

女が女装している……。

なぜキムがせっかくの「変装」をすべてシャワールームで拭い去って「元の姿」をさらけ出して見せたのか分からない。それがキムのエキセントリックなところだったのだろう。

やっと事情が飲み込めたが、まだ恐怖に駆られたままだったので、キムには申し訳ないがすぐに帰ってもらうことにした。セックスは要らないし、怒っていないと彼女に伝えた。

彼女は金さえもらえれば文句はなかったようで、来たときと同じ寡黙さで帰っていった。

ひとりきりになったあとは、ぐったりとベッドに横たわり、もう売春地帯をさまよい歩く元気すらも残っていなかった。

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