◆3つの悪霊を見る女。売春と、愛と、深い嫉妬の中で(3)

◆3つの悪霊を見る女。売春と、愛と、深い嫉妬の中で(3)

タイ編
日本人が考える以上にタイ人は信仰心を持っているが、それにはアニミズム的要素もまた含まれており、タイでは悪霊(ピー)の信仰はとても一般的だった。

いつだったか、ナンナーク(タイでもっとも有名な女性の悪霊)を奉っている小さな寺も見に行ったことがあったが、そのときも若い女性たちがナンナーク(ナーク夫人)を模した像に向かって手を合わせていた。

私は神も仏も信じないタイプなので、ぼんやりとそれを見つめながら帰ってきたのだった。

ナンナークの物語

悪霊として知られているナンナークの物語はタイ人であれば誰でも知っているポピュラーなものだ。(ナンナーク。死んだ後から始まる愛。タイの美しいオカルト)

親の反対を押し切って愛する男と駆け落ちして幸せに暮らしていたナーク。やがて妊娠するのだが、夫は兵隊に取られて戦地に行ってしまう。やがてナークは産気づくのだが、子供は死産となってナークもまた死んでしまう。

ところが夫を心から愛して成仏できないナークは生き返り、悪霊(ピー)として荒廃した我が家に戻り、子供を抱えて夫を待つのである。

夫はやがて戦地から帰るのだが、ナークが悪霊で子供も幻影であることに気がつかない。ふたりは平和に暮らすのだが、まわりは夫が悪霊と暮らしていることを知っているので何度も忠告に行こうとする。

それを察知すると、すでに悪霊(ピー)になっているナークは、村に災いを起こして、自分と夫に近づけないようにするのである。

しかし、ある日、高床式の床の下に物を落としたナークが、それを取るためにあり得ないほど手を伸ばして取った。それを見て、自分の妻がもう死んでいて悪霊になっていることを知った夫は逃げ出して寺院の高僧に助けを求めるのである。

やがて、高僧の祈りと説法にナークは改心して、ほとばしるような夫への愛や情念をあきらめ、成仏していく。そんな物語である。

夫を心から愛して成仏できないナークの情念と怨念、それを救い取る仏教の包容。これはタイという国の精神的な根源を形にしたものだった。

だから、この映画は何度も何度も映画化されて、そのたびにヒットして語り継がれていった。私もまたこの映画を見て、ナークの情念に感銘を覚えたことを想い出す。

 

プットウ・タンモウ・サンコウ

こういったタイ独特の背景があるので、悪夢にうなされたピンが夢の中で悪霊(ピー)を見たと言って怯え、小さなブッダの像をベッドに置いて三回、祈祷しながら拝むのを見ても奇異には思わなかった。

悪霊信仰は彼女の中にも生きているということだ。このずっとあとにナンナークの話もピンとしたが、ピンもまたあれは”True sad story.”(本当にあった悲しいお話よ)と言って怖がった。

そういえばヒンドゥーの神を信じるインドの女性たちが、売春の前に奇妙な祈り言をするのも思い出した。(ブラックアジア「第三部」ソナガシのジョーティー:会員制より

ジョーティーという美しい娘だった。彼女はシヴァを信じていて、売春の前にはシヴァに対する祈祷が欠かせないのである。

私はシヴァも悪霊も信じないので、そういった女性を見てただ茫然として見つめ、そして奇妙な風習を静かに受け入れるだけしかしない。

翌朝、ピンは夢の中で悪霊を見たことを一生懸命に話して、それから「この部屋には悪霊がいるから気をつけて」と私に言った。

どうやってそれを気を付けるのかと私が笑っていると、彼女はしばらく腕を組んでいたが、やがて名案を思いついたようで、私にこのように言い出した。

「あなたも祈りの言葉を覚えたほうがいいわ」

彼女はタイの祈祷の言葉はいくつかあると言って、それから私にいくつかを覚えておいたほうがいいと言った。

馬鹿馬鹿しかったが、ピンは真剣になって言っている。それでは、といい加減な気持ちで「一番短いのにしてくれ」と頼むと、彼女は「じゃあ、これを3回唱えること」と私に無理強いしたのがこれだった。

プットウ・タンモウ・サンコウ
プットウ・タンモウ・サンコウ
プットウ・タンモウ・サンコウ

そう言いながら3回頭を床にお辞儀しながら祈祷すると良いのだと言う。それが何を意味するかは知らない。

しかし、私は必死になるピンに腹が減ったと訴えて彼女の気をそらし、彼女が何か買ってくると出て行ったあと、やれやれとベッドで溜め息をついた。

Sleeping with the Enemy

ピンは屋台であれこれ見繕って食べ物を買ってきてくれたので、私たちは部屋のテーブルとイスに腰掛けてそれを食べた。

ピンはやっぱり外に出たときに連絡を取りたいから携帯電話を持ってくれと私に言う。

「私も自分のアパートに戻らなきゃ行けないし、外にいるときに何が欲しいか電話できるから。それに、あなたはどれくらいパタヤにいるの?」

私は「ずっと」と答えそうになったが、よく考えてから「あと1週間くらい」と答えた。

「そのあとはバンコクに戻ってパスポートをチェンジしなければならない。長くタイにいるツーリストはそうしないといけないんだよ。君の国が決めた」

すべて嘘だったが、私は本能的にそう言っていた。

食べたあとにピンと一緒にホテルを出て、適当なショップで携帯電話を見に行った。

いろいろな機能があったほうがいいと店員もピンも言ったが、私は首を振って「機能は何も要らないからとにかく一番安いやつが欲しい」と言った。結局、ノキアを650バーツで買って、300ハーツほどのプリペイドのSIMカードを入れてもらって買い物を終えた。

帰りにホテル近くのドラッグ・ストアが目についたので私はピンと一緒にそこに入り、頭痛薬(アスピリン)を買った。

ホテルに戻ったあと、ピンは「そんなに頭が痛いの?」と尋ねるので「時々、すごく痛い」と答えると、うなずいて「いいクスリがあるけど試してみる?」と言った。

「それはとっても効いて、疲れているときに飲めば、すごく元気になるのよ。あなたにすごくいいと思うわ」

私はすぐに彼女が言っているのがヤーバー(覚醒剤)であることに気がついて、「ヤーバーは眠れなくなるから要らない」と答えた。

そうするとピンはまたうなずいて「眠りたいときは、すぐに眠れるクスリもあるわ」と答える。

「飲んだら、途中で一回も起きないの。悪霊(ピー)が出ても寝たままね。私もたまに飲むわ。アパートにあるから持ってきてあげる」

ピンが好意で言っているのか、私を中毒にするつもりで言っているのか、それとも睡眠薬強盗をするつもりで言っているのかは判断できなかった。しかし、女がクスリを薦めてくるのだから警戒はしておいたほうがいい。

盗まれて困るのはタイの銀行のキャッシュカードと、クレジットカード、パスポードだけで、幸いなことにこれらは部屋のセーフティーボックスに入れておけば守れるはずだった。

セーフティーボックスは番号を合わせるものなので、寝言で数字を言わない限り開けられないだろう。あとは現金を含めて、全部やられても問題ない。

だとしたら、ピンが “Sleeping with the Enemy”(一緒に寝る敵)であっても私には何ら問題はなかった。

人の心は読めないし、感情は変わるから今は邪心がなくても夜中には気が変わるかもしれない。悪霊がピンに取り憑いたら、彼女も「敵」になることもあるだろう。

敵でも味方でも私には大して違いはなかった。どのみち私たちは愛でつながったカップルではなく、私たちは今さら純愛を演じるつもりもなかったからだ。

女性はそれぞれ「距離感」に個性

裏のある女というのは信用できない何かしらの表情や言動があるが、ピンからはまったくそのようなものは感じなかった。

私の人間観察が確かなら、ピンは悪い女ではないし、何かを企む女でもなさそうだった。裏切られても構わない程度には警戒はしていたが、裏切られる確率はそれほど高くないと計算しながら彼女と一緒にいた。

ピンは性格も外見も、恐らく素は素朴な女だと考えていた。クスリの話も裏があるというよりも、世話を焼きたいという部分から出ているのだろうと推測した。

テレビを見たり、果物を摘んだりする彼女からは何の下心も見えなかったのだ。

そして、結局クスリの件は私の杞憂に終わった。彼女はすっかり忘れて一度もクスリを持ってくることがなかったからだ。

ピンは自然体だった。

化粧もせず、部屋に入ればずっと下着でうろうろしていたので、何か気心の知れた夫婦か、すっかり惰性で付き合っているカップルのような雰囲気になっていた。

多くの女たちと付き合っていると分かるが、女性はそれぞれ「距離感」に個性がある。

他人に一線を引いて内側に入らせない性格もあれば、子供のように距離感を持たない性格もある。べたべた触られるのを嫌がる女もいれば、触らなければ不満に思う女もいる。

私もやはり「距離感」を持っている。私は女性を全面的に受け入れながらも、最終的には数時間後には別れることを前提として付き合っている。

だから、精神的につながりのできる距離感は避ける傾向がとても強く、同情心や執着心や愛情や慈しみが芽生えてくると、とても居心地が悪くなって動揺する。

ピンと一緒にいて楽なのは、彼女も付き合いを割り切っており、互いの距離感が非常に一致していたからだ。

互いに何も求めていなかったが、それがお互い様だったので、逆にうまくバランスが取れているという皮肉な状態だ。しかし、そのバランスが崩れる瞬間もあった。

嫉妬している相手は存在しない

彼女は夕方になるとバーにペイバー代を持っていかなければならないと私に言った。そうしないと欠勤扱いになるので後が面倒なのだと説明した。

彼女のバーはホテルのすぐ斜向かいだ。だから、一緒に行ってドリンクでも飲んで彼女の仲間たちと談笑してからまた部屋に戻ったりしていた。

「仲がいいわね。ベストカップルだわ。あなた、ピンを日本に連れて帰りなさいよ」

彼女の友人が言うので、私は首を振って「それはできない」と即答した。私には大したことのない会話のやりとりだったが、ピンはそれをじっと聞いていて、ホテルに戻ると私を問い詰めた。

「なぜ、私とあなたは一緒に日本に行ったら駄目なの? あなた、日本に奥さん以外に愛人(ミアノイ)がいるんでしょ?」

「そんな女はいない」と私が答えると、ピンはたたみかけて尋ねてくる。

「じゃあ、あなたは日本に帰ると、誰とファックしているのよ? 奥さんとは別居してファックできないんでしょ。誰とファックしてるの? ミアノイでしょう」

ピンは世話焼きなところがあるのと同時に嫉妬深い面も合わせ持っていて、それが交互に入れ替わって現れたり消えたりする。

ミアノイがいるはずだと問い詰めるピンも怒りをたぎらせていて本気で嫉妬しているのが見て取れた。

お互いに金で割り切った関係であるにも関わらず、彼女の嫉妬は根深かった。私がいくらミアノイはいない、体調が悪いからセックスは欲しくないと答えても無駄だった。

もうすっかりうんざりした頃になると、彼女は抱きついてきて私たちは黙り込む。長い間黙り込んでいると、彼女が下着を脱ぐ。私は疲れているので欲しくないと言ったが彼女は許さなかった。

嫉妬が彼女を駆り立てているようだが、彼女が嫉妬している相手は存在しない。悪霊(ピー)と同じだった。それはいるのだと彼女は信じ込んでいた。

そんなものはどこにもいない。

悪霊は部屋の隅にいる

ピンはずっと私から離れなかったので、私は連続して彼女をペイバーし、ほぼ1週間ずっと朝から晩まで一緒にいた。

ピンには1週間後にはバンコクに戻らなければいけないと言っていたので、本当にバンコクに戻るか、それとも延期してこのままピンと一緒にいるか決めなければならなかった。

彼女は甲斐甲斐しく身辺の世話をしてくれたので楽だったし、彼女は彼女で連続して金が入るからか、すっかり私がお気に入りになっていたようだ。

一緒にいるのは互いに相手が都合良かった。それならば、ずっと彼女がそばにいてくれても良かった。

しかし、さすがに1週間も一緒にいると、もしかして情が移るのではないか、彼女も離れなくなるのではないかと思い始めるようになって落ち着かなくなってきた。

あと、だんだん嫌になってきたのは、次第にピンが私の身体が悪いのは、私に悪霊(ピー)が憑いているからだとも言い出し始めて、それを自分で信じ込み始めたことだった。

違うと私が言っても彼女は「私は分かる」と譲らず、有名な寺院(ワット)があるから、高僧に祈祷してもらうべきだと言い始めるようになった。

それはそれで面白いと思ったが、体力もないと寺院に行くことすらも面倒な気持ちになって急に気分も萎む。

彼女が夢で見た悪霊(ピー)は、きっと私が連れてきたものに違いないとも言った。

そして、夢に見なくても、時々彼女はそれを感じるのだという。私たちがふたりで部屋にいると、悪霊は部屋の隅にいるのがピンは分かるのだという。

いきなりそのようなことを言うのだが、そうかと思えばまったく気にしている素振りもなくテレビを見て笑っていたりもする。どこまで本気でそう思っているのかも分からない。

別れ

私は3つの悪霊(ピー)のことを考えていた。

ピンが夢見たという悪霊と、私に取り憑いているという悪霊と、夫を思う情念で成仏できなかったというナンナークという悪霊だ。

別々のものなのか、それとも全部同じものなのか知らないが、なぜピンはこんなものがいると思うのだろうかとじっと考えていた。

明らかにそれは実在しない。しかし、それを考える時間が長くなればその存在は脳裏で生命を与えられて棲みつく。そして最後には「それがいないと信じられなくなる」のだろう。

そういった思考のワナが興味深かった。

その「悪霊」の思い込みを無視すればおおむね彼女とは相性が良かった。そして、なぜかひとりでいるよりもずっと体調も良くなってきているのも皮肉なことだった。

では、一緒にいたほうがいいのか? しばらく考えていたが、私はやがて答えを出して、ピンに言った。

「ピン。そろそろバンコクに戻らなきゃいけない」

私はピンとはこれで終わりにするつもりだったが、ピンはまったくそう思っていなかった。

「バンコクから電話が欲しい、いつ戻ってくるのか、長くかかるなら私もバンコクに向かうわ」

柔和で安心しきったピンの顔を見ていると、もうこれで終わりにするつもりでいる自分の身勝手さや冷酷さに心が痛んだが、一緒にいればもっと別れが辛くなるのも分かっている。

翌日、私はピンと一緒にホテルを出て、ピンに呼んでもらったタクシーに乗り込んでバンコクに戻ることにした。最後の瞬間まで、ピンはこれが最後の別れになるとは思っていないようだった。

「向こうに着いたら電話ちょうだい。必ずよ」

私はピンを抱擁してタクシーに乗り込み、動き始めるタクシーの中で振り返った。遠目に見るピンはとても華奢に見えた。

急に彼女に未練を感じて戻りたくなったが、私は腕を組んでその衝動を抑えた。終わりだ、と私は自分に言い聞かせた。

しかし、いつまでもずっとタクシーを見送ってくれる彼女の優しさが身に染みた。

 

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