相手をこちらの色に染めるのではなく、自分と同じ色の陣地を広げることが重要

相手をこちらの色に染めるのではなく、自分と同じ色の陣地を広げることが重要

言うまでもないが、白い碁石は白のままで黒い碁石は黒いままだ。碁石の色を変えることはできない。碁盤の上で重要なのは「陣地」なのである。つまり、「相手をこちらの色に染める」ことではなく「自分と同じ色の陣地を広げること」が重要なのだ。(鈴木傾城)


プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)

作家、アルファブロガー。まぐまぐ大賞2019、2020年2連覇で『マネーボイス賞』1位。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」、投資をテーマにしたブログ「フルインベスト」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。(連絡先:bllackz@gmail.com)

考え方が違うことで殺し合いするくらい人は違うのだ

人間の考え方はまったく違う。支持する政党に関しても、経済政策に関しても、信じる宗教に関しても人それぞれである。

男女の付き合いに関しても、容姿に関しても、ライフスタイルに関しても、仕事に対する態度に関しても、人生の目的に関しても、死生観に関しても、常識と思うことに関しても、あらゆるものに人はそれぞれ自分なりの考え方がある。

同じグループはある。しかし同じグループにしても、それぞれみんな微妙に考え方が違う。それぞれ違うから、同じグループの中にあるはずなのに対立して内ゲバが始まり、分離して別グループに細分化していくのだ。

「内ゲバ」というのは左翼用語なのだが、内部で意見が対立して殺し合いにまで発展していくのが内ゲバだ。考え方が違うことで、凄惨な殺し合いをするくらい人は違うのである。

考え方は、それが自分のアイデンティティと直結していることも多い。

世の中を見つめて人々はいろんな考え方をするのだが、何が正しいのかは、「1+1=2」のような明確な正解があるわけではない。だから人は今までの自分の経験や、教えや、生き方に即して、自分なりの答えを導き出す。

導き出した答えによって、改めて自分という存在を固定化させる。誰もが自分の信じているものが正しいと思っているし、それに即した生き方をしているので、それを変えることは容易ではない。

だから、人は「分かり合う」ことが難しいし、自分と真逆の意見を持った人間を見ると、激しく憤ることになる。そして、激しい言葉を投げ合い、対立と衝突が生まれ、決定的に分断していくことになるのだ。

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相手が折れないと、ヒートアップしてやがて批判から誹謗中傷へ

日本は単一民族で単一文化であるとは言われるが、その日本でもみんな考え方は同じなのかと言うと、やはり1人1人「違っている」のである。哲学も信条もライフスタイルも好みも大きなグラデーションを描いて違っている。

日本人は、いろんな意味で一括りにされがちだが、本当は何もかも違っている。そもそも年齢も、外観も、性格も、話す方言も違う。

考え方に関して言えば、親子でもそれは違っている。兄弟でも考え方は違う。同じ兄弟であっても、考え方が水と油のように違っているというのも珍しくない。当然、考え方が違えば、生き方も違っていく。

考え方が違うというのは、何を意味しているのかというと、同じ物を見ても、同じ捉え方ができないということである。

最近は、コロナのワクチン接種に関して意見が二分しているが、賛成派は「ワクチンを打ちたくない」という人間が馬鹿ではないのかと思うし、反対派は反対派で「安全が担保されているわけでもないのを打つなんて頭がおかしいのか?」と思う。

ワクチンに関しては安全性もリスクも同じ情報が提示されている。どちらも同じ物を見ながら、感じ方が180度違っている。まったく同じものを見ても、答えが違ってくるのだ。

当然、お互いに「相手がいかに間違っているのか」を論破しようとあらゆるデータを持ち出して戦い始める。相手が折れないと、それはヒートアップしてやがて批判から誹謗中傷へと向かっていく。

そしてお決まりの「対立・憎悪・衝突」という道を辿っていくのである。

別にワクチンで賛成派と反対派がそれぞれ理解し合ったら人間社会の「対立・憎悪・衝突」が消えてなくなるのかと言えばそうではない。人間は政治的信条から死生観まですべて他人と違う考え方を持っていて譲れないものも多いからだ。

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あまりにも違ってしまっているので、相互理解はできない

考え方の違いは人間社会で生きる上で避けられない。遅かれ早かれ、自分とまったく違う考え方をする人間と出会い、攻撃され、時には誹謗中傷されるということになる。私たちは必ず考え方の違う誰かの無理解と批判に遭う。

互いに考え方が違いすぎて、どちらかの性質が変わらない限り、互いにその時点で「決定的な違い」が解消できない。自分の主張や意見や言動は、考え方がまったく違う人たちによって、完全否定されてしまう。

そして、100の説明を尽くしても理解してもらえる可能性は限りなく低い。説明すればするほど相手は意固地になって極度の拒絶を示すようになっていくだろう。完全に敵対者となる。

インターネット時代、SNS時代になった今、自分と真逆の人間と出会うスピードは格段に増した。

そういった「考え方が違う人たち」をどうすればいいのかという話になっても、どうにもできない。歩み寄りと相互理解が可能な案件もあるが、そうでない案件も多い。

完全に主張が対立してしまった時、こちらはもちろん相手の考え方を受け入れることはできないし、相手もこちらの考え方を完全拒否するだろう。あまりにも違ってしまっているので、相互理解はできない。

どちらが正しいか、どちらに正義があるのかは意味がない。どちらも自分が正しいと思っているし、どちらも自分が正義だと思っているからだ。考え方の相違は、歩み寄りが難しいものであり、理屈で納得させることはできない。

当然、考え方の違った人間は共生することも難しい。短期間は我慢できるかもしれないが、長期間に渡って一緒にやっていくことはできない。考え方の違い過ぎる人間同士が一緒にいると、激しい相互不信の中で最後に仲が壊れていくからだ。

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白い碁石は白のまま、黒い碁石は黒いままだ

私たちは、基本スタンスとして「考え方の違う人に、いかに転向してもらうか」という無駄な努力をしてはいけない。無駄な努力はどんなに頑張っても徒労に終わる。最初から無駄なことはやらない方が効率的だ。

多くの人が「自分とは違う考え方の人」の考えを変えたいと思ってしまうのは、もしかしたら、それができると思っているからなのだろうか。そう思っているのであれば、さっさと忘れた方がいい。

人間の歴史は、無理解と不寛容と対立と衝突と戦争の連続なのだ。「互いに理解できない」というのが標準(デフォルト)の状態なのである。

では、私たちはどこに努力を向けるべきなのか。それは「同調する人たち」をいかに増やし広げるかという部分である。反対者を転向させるのではなく、「同調する人たち」を増やす。

人間社会はある意味、囲碁と同じであると私は考えている。社会という碁盤の上で、自分と同調する人たち、すなわち「碁盤上の陣地」を広げるのが人間社会において必要なことではないか。

個人の考え=碁石の色
同調する人たち=碁盤上の陣地

言うまでもないが、白い碁石は白のままで黒い碁石は黒いままだ。碁石の色を変えることはできない。碁盤の上で重要なのは「陣地」なのである。つまり、「相手をこちらの色に染める」ことではなく「自分と同じ色の陣地を広げること」が重要なのだ。

ここを間違ったら、無駄な時間を消費することになる。もし、今まで「個人の考え=碁石の色」を変えようとしていたのであれば、それはすぐに捨てて「同調する人たち=碁盤上の陣地」を増やす戦略に切り替えた方がいい。

白い碁石は白のままで黒い碁石は黒いままだ。人間の考え方の色を塗り替えることはできないのである。

書籍
『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』

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