「運の良し悪し」というのは、意外に私たちの命運を決める大きな要素である

「運の良し悪し」というのは、意外に私たちの命運を決める大きな要素である

あまり認めたくない人もいるかもしれないが、何かの場面で助かるかどうかは、その人が善人や正しい人であるかどうかとあまり関係がない。悪行の限りを尽くしてのうのうと生き残る人間もいれば、善の限りを尽くしても非業の死を遂げることもある。そういう現象がある。(鈴木傾城)


プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)

作家、アルファブロガー。まぐまぐ大賞2019、2020年2連覇で『マネーボイス賞』1位。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」、投資をテーマにしたブログ「フルインベスト」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。(連絡先:bllackz@gmail.com)

それでも、私は「運良く」コロナに感染していない

神経質なまでにコロナウイルスを警戒して、マスクは必須、手洗いやうがいを欠かさず、常にアルコールで手を消毒、会食も避け、リモートで仕事をして、それでもコロナに感染してしまったという人もいる。(@DIME:外出を避けて徹底的に対策していたのに…感染したからこそ伝えたい新型コロナの本当の恐ろしさ

一方で、誰とは言わないが、マスクは鼻マスク、手の消毒もしない、会食も遠慮しない、大勢で騒いで、風俗にまで繰り出す知り合いもいる。ところが、このいい加減な人がまだコロナに感染しない。

私自身も、それほど神経質にコロナ対策をしているわけではない。もともと途上国を長くうろついていた身でもあるので、衛生観念はそれほど敏感ではない。消毒用アルコールを持ち歩こうとも思わない。

だから、私もコロナ対策と言えばマスクをする以外のことは何もせず、神経質にやっている人から見たらずいぶんおざなりであると思われるに違いない。その通りだ。おざなりだ。

私は、神経質に対策をしている人を見ると感心するものの、そういう人とは一緒にいたくないと思う。

気持ちは分かるが、それを強制されるのが嫌だ。いちいち面倒くさい。それでも、私は「運良く」コロナに感染していない。明日、コロナに感染するかもしれないが、そうでないかもしれない。運次第だ。

神経質な人や感染しないように気をかけている人が感染し、そうでない人が感染する気配もないというのは不公平だが、よくある話だ。改めて「運が良い、運が悪い」というのはあると思わざるを得ない。

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ただ単に、運が良いとしか言いようがない人がいるのだ

コロナだけではない。何にしてもそうだ。どんなに気をつけていても、交通事故に遭う人は遭うし、何も考えていなくても交通事故に遭わない人もいる。

何百回も飛行機に乗り、途上国で現地の危ないバスやタクシーに乗り、バイクにまたがり、それでも交通事故に巻き込まれないで済む人もいる。

別に助かる準備をしていたとか、神経を研ぎ澄ませていたとか、理性的に行動したというわけではない。また、まわりに気を配る性格だったとか、第六感が働くわけでもない。まして、日頃の行いが良かったわけではない。

ただ単に、運が良いのだ。それだけだ。

そう言えば、タイの歓楽街でたった一度の関わりで、性病に感染した人もいた。最初の一度で性病感染はさすがにショックが大きいに違いない。

「コンドームはしなかったのか」という疑問もあるかもしれないが、コンドームも完全ではない。歓楽街はアルコールもしこたま入っているし、誰もがうまく安全なセックスができるわけではないのだ。

ある人はコンドームをしていたにも関わらず淋病にかかったと話す。貧困地区の売春する女性の中には「コンドームがもったいない」と言って、洗って使い回しすることがあるのを彼は知らなかった。

コンドームさえ途上国では安全ではない。しかしながら、その途上国で現地のコンドームを使っても、いやコンドームを使わなくても性病にかからない運の良い男もいるのだ。

1999年前後、私はプノンペンの売春地帯に入り浸っていた。しかし、私は致命傷を負わずに切り抜けた。プノンペンの売春地帯で逮捕された人も殺された人もいる。交通事故に巻き込まれて死んだ人もいれば、騙されて無一文になった人もいる。

私は助かったが、助からなかった人もいるということだ。誰が助かって、誰が助からなかったというのは、特に何らかのパターンがあるわけではない。単なる「偶然」が作用していたというのが現実だ。

インターネットの闇で熱狂的に読み継がれてきたカンボジア売春地帯の闇、『ブラックアジア カンボジア編』はこちらから

その人が善人や正しい人であるかどうかとあまり関係がない

あまり認めたくない人もいるかもしれないが、何かの場面で助かるかどうかは、その人が善人や正しい人であるかどうかとあまり関係がない。

宗教家に言わせれば、運が良い悪いも、因果応報ということになるのだろうが、人生と運命は因果応報では語れない。悪行の限りを尽くしてのうのうと生き残る人間もいれば、善意の限りを尽くしても非業の死を遂げることもある。

カンボジア国民を100万人も大虐殺したカンボジアのポル・ポトは、地雷に囲まれたジャングルの中で仲間と共に暮らし、73歳まで生存していた。意外に長生きした。

大虐殺者であるソビエトのヨシフ・スターリンも75歳まで生きている。人類史上に残る大虐殺者ならさぞかし早死にするのかと思ったら、まったくそうではない。

悪人であっても長生きする人はする。逆に「正しい人」であっても悲惨極まりない人生の中で死ぬ人も多い。「正しい人」になっても、良運が向くわけではない。多くの人は、このあたりを本能的に間違っている。

「良いことをしたら良い結果が返る」と言われたら、戦争で死んでいった人たちや、虐殺に遭った人たちや、内戦で悲惨な人生を送るしかない人たちを思い浮かべて疑問を持たなければならない。

ドイツで虐殺されたユダヤ人は誰ひとりとして良いことをしなかったのだろうか。広島・長崎の原爆で死んでいった約40万人の日本国民は誰ひとりとして良いことをしなかったのだろうか。

そんなことは絶対にない。無残に殺された人たちの中には、誰よりも善人で、誰よりも神仏を信じ、誰よりも正しい行いをして生きてきた人も多かったはずだ。「良いことをしたら良い結果が返る」という因果応報は、客観的に考えると成り立たない。

つまり、善行を積もうが、神をどんなに信じようが、金持ちだろうが貧乏人だろうが、楽観的にいようが、運の良し悪しにまったく何の関係がない。

1999年のカンボジアの売春地帯では何があったのか。実話を元に組み立てた小説、電子書籍『スワイパー1999』はこちらから

世の中はテストの問題のように正誤が決まっていない

コロナワクチンの接種については、賛否両論がある。「打った方がいい」という人もいれば、「打たない方がいい」という人もいる。どちらも、それぞれ自分なりに情報を集め、入り乱れる安全論と懐疑論を「自分の常識」に基づいて判断する。

いろんな情報を見て「よし、打とう」と選択する人もいるし、「いや、やめておこう」と選択する人もいる。気づかなければならないのは、どちらも「正しい選択をした」と確信していることだ。

明らかに間違っている情報を信じている人であっても、その人は「自分こそが正しい選択と決断をしている」と確信しているので、他人の方が間違っていると思い込む。

コロナワクチンの安全性もそうだが、世の中はテストの問題のように正誤が決まっている問題ばかりではない。選択と決断の正誤が分からないことも多いのだ。

転職問題であっても、「今の仕事を続けた方がいいのか、辞めた方がいいのか」はどちらを選んでもそれが正しかったのか誤っていたのかは誰にも分からないし、結婚問題であっても、選んだ配偶者が正しかったのか間違っていたのかは選んだ時点では分からない問題である。

誰もが「こちらの方が正しい」と思って決断するが、それも間違っている可能性は十分にある。

そう考えると、運の良し悪しというのは、意外に私たちの将来を決める大きな要素であると気づく。運が良ければ何もしなくても運の良い結果が手に入る。運が悪ければあきらめるしかない。

そういうのを私はさんざん見てきたので、「結論は最後まで分からないものだ」と思っている。

やりたいようにやり、正しいと思う選択をして、運が良ければ良いことが起こるし、運が悪ければそれなりのことが起こる。それが自分の運命なのだから、じたばたしても始まらない。

どうすればいいのか。結局のところ、自分で考え、自分で決断し、やりたいようにやればいい、と思う。それしかないのである。それで運が良い結果になれば儲けものだし、地獄に堕ちたら「運が悪かった」ということだ。これを「人生」と呼ぶ。

書籍
『恐ろしい感染症からたくさんの命を救った現代ワクチンの父の物語(ポール・A. オフィット)』

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