違った文化や思想を持った国が相手を尊重しつつ相互に利益を引き出す方法とは

違った文化や思想を持った国が相手を尊重しつつ相互に利益を引き出す方法とは

現在の「多文化共生」は間違っている。なぜなら、それはひとつの国の中で、ありとあらゆる人種や宗教や文化や伝統をぐちゃぐちゃに混ぜて、「さあ、互いに共生しろ」と言っているからである。ひとつの国の中で「異質」を一緒にしたら、軋轢が生じるのは誰が見ても明らかだ。(鈴木傾城)


プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)

作家、アルファブロガー。まぐまぐ大賞2019、2020年2連覇で『マネーボイス賞』1位。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」、投資をテーマにしたブログ「フルインベスト」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。(連絡先:bllackz@gmail.com)

国際化《インターナショナル》というのは何か?

それぞれの地域にそれぞれの国があって、いろんな文化がある。国ごとに宗教も違えば人種も違えば言葉も違う。もちろん常識も違う。これは悪いことだろうか。いや、まったく何の問題もない。

日本には日本の文化があり、言葉があり、人種がある。そして、世界にはそれぞれの文化があり、言葉があり、人種がある。これは悪いことだろうか。いや、まったく何の問題もない。

日本は八百万《やおよろず》の神がいるのだが、世界のある地域によってはキリスト教という一神教であったり、イスラム教という一神教であったりする。それ以外にも世界各国で土着の宗教があって、様々な神が信じられている。これは悪いことだろうか。いや、まったく何の問題もない。

それぞれの国が違っているというのは何の問題もない。ただ、違うことに関して対立や衝突が起こるのは間違いない。だから、なるべく対立や衝突が起きないように調整しながら相互に距離感を持って付き合う。

それぞれの国家(ナショナル)がある。
相互(インター)に距離感を持って付き合う。

これを国際化《インターナショナル》と呼ぶ。国際化《インターナショナル》というのは、それぞれの違った文化や思想を持った国が、相手を尊重しつつ、相互に利益を引き出す関係であると言える。

まずは「国家ありき」である。それぞれの独自の文化を持つ国家があって、それを認め合う。「自分を認めてもらい、相手を認める」ことが最初にあって、そこから相互の関係が始まる。

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要は、相互《インター》の部分がうまく調整できればいい

人種が違ったり、宗教が違ったり、文化が違ったり、言葉が違ったりすると、相手の文化が興味深く思うこともあるのだが、逆に対立や衝突を生み出す元になる。特に国境を接した隣国とは往々にして、領土問題、人種問題、宗教問題、歴史問題で隣国と険悪な関係になる。

だから、付き合いには一定の距離感がないと、殺し合いや戦争が始まる。それを防ぐために相互《インター》の部分が重要になる。

利害関係を調整できる人間が、注意深く相手と付き合うことによって、対立と衝突を最小限に食い止めることができる。野放図に誰も彼もが関係していると対立や衝突は避けられないのである。

要は、相互《インター》の部分がうまく調整できればいいのである。

最も理想的なのは、どこの国の人間も外国に行く時はきちんと相手の文化を理解し、許容し、受容し、尊重できるのを条件にして、それに承諾してから外国に向かうことである。

自分が外国に行く時も、外国人を自国に向かい入れる時も、「相手を尊重します」という意志があれば、人種・文化・宗教・言葉が違っていても互いに安心して相手を向かい入れることができる。相互の関係がうまくいく。

かつての日本人はこれを「郷に入っては郷に従え」と簡潔に言った。郷というのは、それぞれの地方のことなのだが、かつての日本は同じ日本でも人の行き来が限られていたので地方地方によって言葉も文化もかなり違っていたのだ。

それを「そんな言い方はおかしい、そんな味の付け方はおかしい、そんな文化はおかしい、そんな祈り方はおかしい」といちいちあげつらっていると殺し合いになる。だから、自分の流儀とはいろいろ違うものがあったとしても、「郷に入っては郷に従え」と言ったのだ。

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「郷に入っては郷に従え」の拡大版が「国際化」ではないのか?

「郷に入っては郷に従え」ができないと対立が起こる。そして、最悪の場合は衝突も起こる。相手を尊重せず、自分の流儀を貫き通すというのは、相手に対する挑戦なのである。

世の中を変革するために、あえて挑戦することが必要な時もあるかもしれない。しかし、年がら年中、自分の流儀を相手に押しつけていたら、やがては憎しみを生み出し、対立し、衝突するのは分かりきっている。

だから、「郷に入っては郷に従え」という戒めが共有《シェア》されて、そうすることによって無益な対立や衝突を避けようとした。

国際化《インターナショナル》の基本も、「郷に入っては郷に従え」の拡大版であると言える。

それぞれの国で、いろんなものが違う。しかし、それを「違うから間違っている、こっちが絶対に正しい、相手は変えなければならない」と自国の流儀を押しつけるのではなく、「うちはうち、よそはよそ」ときちんと区分けして、違いを認めながら相互に窓口を設けて利害関係を調整していく。

自国と相手国との間に埋めることができないほどの溝があるのであれば、どうするのか。その場合は、人の行き来を互いに絞って様子を見て、相手の文化の機敏をきちんと理解できる人間だけを相互《インター》に派遣し合うような形にする。

そうして、対立が凄惨な殺し合いや戦争にならないように調整するのが国際化《インターナショナル》ではないのか。

国際化というのは、そういうことではないか。文化の優越を競い合ったり、自国の優位性を声高に叫んだり、相手の文化を貶めたり、まして相手の国に侵略したりするのは、国際化《インターナショナル》の破壊である。

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人類は早く「本当の意味の国際化」に立ち返るべきだ

国際化《インターナショナル》というのは、それぞれの国が自主独立した状態で、互いに関係を結ぶことだ。相互《インター》に結びつくことだ。多種多様な文化や伝統を尊重するというのは、本来はそういうことではないのか。

現在、全世界で行われている「多文化共生」は間違っている。

なぜなら、それはひとつの国の中で、ありとあらゆる人種や宗教や文化や伝統をぐちゃぐちゃに混ぜて、「さあ、互いに共生しろ」と言っているからである。ひとつの国の中で「異質」を一緒にしたら軋轢が生じるのは誰が見ても明らかだ。

実際、多文化共生を取り入れた国家のほぼすべては国内で激しい衝突が起きて、繰り返し繰り返し対立と衝突が発生している。リベラルの総本山であるアメリカでも、いまだに人種間の対立は収まっていないし、むしろ先鋭化している部分もある。

多文化共生を強制し、とにかく人種も文化も伝統も歴史も何もかも無視してぐちゃぐちゃにまぜてしまおうとする乱暴なやり方は、まだまだ人類には早すぎるし、馴染まないのではないか。

それよりも、世界にはいろんな人種・文化・伝統・宗教があって、それぞれ侵すことなく認め合い、相手の文化に敬意を持って接することができる人間が、それぞれの国を訪れるような形にした方がいいのではないか。

その方が、むしろ多文化が花開き、真の意味での共生ができるのではないか。

私は今までずっとそのような考え方だった。それは初めて東南アジアを訪れた時から今まで変わったことはない。「それぞれの国が自主独立した状態で互いに関係を結ぶ」という本来の国際化《インターナショナル》を私はずっと支持している。

私は日本人なので日本文化を愛しているが、同時に東南アジアの文化をも愛している。だから、それぞれの国が相互に自主独立して、相互に行き来できて違う文化を愛でることができればいいと思っている。

人類は本当の意味の国際化《インターナショナル》に立ち返るべきだ。そう思わないだろうか?

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