どん底が広がる世界では、今よりも清潔ではない環境を受容できる精神力が必要

どん底が広がる世界では、今よりも清潔ではない環境を受容できる精神力が必要

日本経済は悪化し続け、私たちの生活はボロボロになっていく。サバイバルの中では「清潔」という概念を日本人は意図的にワンランク落とす必要があるのではないか。清潔に慣れると、今よりもレベルの落ちた環境を不潔に思い、精神的に対応できなくなってしまうからだ……。(鈴木傾城)


プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)

作家、アルファブロガー。著書は『ボトム・オブ・ジャパン』など多数。政治・経済分野を取りあげたブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」を運営、2019、2020、2022年、マネーボイス賞1位。 連絡先 : bllackz@gmail.com

「清潔」という概念を意図的にワンランク落とす

日本の暮らしの環境がどんどん悪化していこうとしている。

コロナ禍でダメージを受け、物価上昇でダメージを受け、電気代の値上げでダメージを受け、増税でダメージを受け、社会保障費の引き上げでダメージを受け、実質賃金の低下でダメージを受け、私たちの生活環境はボロボロだ。

今の政治家・高級官僚どもは、もはや経済を成長させることができないほどの無能と成り果てており、今後も日本が成長するような方策はまるで持っていない。そのため、私たちの国は滑り落ちるように凋落するばかりで浮上は望めない。

国民負担率も約48%である。これは、給料の半分が政府にむしり取られているという意味でもある。

今の私たちは危機の中にあることが分かるはずだ。すでに社会のどん底(ボトム)は口を開けて人々を待っていて、ずるずるとそこに飲まれていく人が続出している。

当たり前だが、経済的に困窮すると、生活をダウングレードしなければならない。もっと家賃の安いところに引っ越ししなければならない人も続出するだろう。それが凋落していく国の中で起こることなのだ。

こうした中でしたたかに強く生き残れるのは、「清潔」という概念を意図的にワンランク落とせる人である。なぜなら、生活をダウングレードすると、着実に今よりも清潔度が落ちる環境が待っているからだ。

清潔さを維持するには金がかかる。しかし、それは金を払う価値があると誰もが知っている。だから、生活のアップグレードは清潔さの追求になる。

逆に言えば、ダウングレードは「清潔さ」を失うということだ。ということは、生活をダウングレードするために必須となるのは、今よりも清潔ではない環境を受容できる精神力であると言うこともできる。

ダウングレードは、清潔度を落とすことで成し遂げられる。

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プライドと共に清潔観念も捨てる必要がある

どこの国でもいい。外国を巡って日本に降り立つと真っ先に感じることがある。それは、日本という国はとことん「清潔」であるということだ。

清潔と言えば、シンガポールも負けていない。しかし、そのシンガポールを上を行く「清潔さ」を、日本という国は持ち合わせている。それは、日本人がことさら「清潔」を好むからでもある。

しかし、生活をダウングレードするなら「清潔」に対するこだわりを弱める必要がある。「清潔」を失いたくないという気持ちのままでいると、不潔な環境を受容できる精神力が弱ってしまい、生活をダウングレードしてもしたたかさになれない。

わざわざ不潔を好む必要はないし、日本社会を不潔にしろと言っているわけではない。清潔を追求する日本社会は世界でも稀に見る美しい文化を生み出している。それは誇るべきだ。

しかし、その清潔さにどっぷりと浸ってそれが当たり前のように思っていると、ダウングレードしなければならない局面で気持ちが折れる。

地を這って泥水を飲んでも生き残る強さやしたたかさは、まずは清潔ではない環境でも生き残れる耐性を必要とする。だから、清潔である環境を当たり前と思うのは若干、危険なことではある。

誰でも常に順調なわけではない。誰でも浮沈を経験し、時にはどん底の中のどん底に落ちることすらもある。

経済的に困窮した時や、人生の下降局面で生活のグレードを落とさなければならない時は、プライドと共に清潔観念も捨てる必要がある。そんなものを引きずっていたら、気持ちがどうしても対応できないからだ。

いざとなっても、自ら生活をダウングレードして平然と生きていける人は強い。どんな環境でも生き残れる人というのは、今より清潔さの劣る環境に放り込まれても、それに対して耐性を持っているということでもある。

1999年のカンボジアの売春地帯では何があったのか。実話を元に組み立てた小説、電子書籍『スワイパー1999』はこちらから

不潔を気にしていたら、海外では生きていけない

日本は世界でも有数の「清潔国家」だ。ということは、日本人が海外に出ると、だいたいは日本よりも劣る清潔環境に直面するということになる。

海外では欠けた皿、ガタガタのテーブル、埃が舞い、ハエが飛び交う中の食事など、どこでも当たり前にある。コップの底は水垢で黒くなっているようなものも使われている。食べ物に虫が入っていることさえある。

日本ではそんな不潔な店は、すぐに撤去されてしまうだろう。インターネットに書き立てられて大批判にさらされ、店じまいを余儀なくされるはずだ。しかし、東南アジアやインドの安宿は日本の環境で言えば、想像を絶する不潔さである。

安宿のベッドはすでに前の人の汗の臭いがすることもあれば、シーツをまくればトコジラミが棲息している跡がびっしりと残されていることもある。(ブラックアジア:トコジラミ。部屋に入ったらベッドのシーツをまくって裏を見ろ

剥がれた壁、埃とゴミだらけの床、カビだらけの浴室、這い回る虫、天井から落ちてくるヤモリ、水道の蛇口から出てくる茶色の水……。

海外ではそんなものは普通なのである。そんなことをいちいち気にしていたら、生きていけないというのが実情だ。私も長らく貧困地区を這い回り、貧困の女たちと共にそんな場所で過ごしてきた。

たとえば1990年代後半にカンボジアにいる時、大きなバケツに溜められた濁った雨水で身体を洗うなんて私には普通のことだった。

繰り返すが、「清潔」であることが悪いとは誰も言っていない。清潔であることは素晴らしいことだし、誰でもそれは認める。しかし、限りない清潔さを求め、それに慣れきっていると、どん底に突き落とされた時にしたたかに生きられない。

インドの貧困層の女性たちを扱った『絶対貧困の光景 夢見ることを許されない女たち』の復刻版はこちらから

それでもなお生き残る「したたかさ」を身につける

あまりに清潔さを追求してばかりいると、社会はおおらかさを失い、柔軟性を失い、清潔さのためにコストばかりがかかる世の中になってしまう。

野菜に土がついていたら苦情、虫がついていたら苦情、少しでも傷んでいたら苦情、色や形が揃っていなければ苦情……と万事がその調子でやっていたら、その分だけ製造も管理もコストがかかって大変なことになる。

清潔さを維持するにはコストがかかる。すべての商品にそうした厳密な清潔さを求め、そこに法規定まで重なると、清潔さは格段にアップするかもしれないが、社会の柔軟性は極度に悪化する。これは、海外に長くなった人が日本に帰ってきたら誰もが口にすることだ。

「日本は何か息が詰まる」
「日本はみんな縛られているように見える」

日本人の清潔志向が行き過ぎると、自ら生きにくい社会を作り出すことになってしまう。日本人自身が「自縄自縛のワナ」にかかってしまうのだ。

さらに悪いことに、その清潔さに子供の頃から慣れてしまうと、今度はそれより劣る環境に対する耐性が持てなくなる。無理やりそこに放り込まれると、激しい失意や恐怖に陥る。

社会が清潔になりすぎると、今よりもレベルの落ちた環境を不潔に思い、精神的に対応できなくなってしまうのである。その気持ちが人生の困難なときに訪れる生活のダウングレードを難しくする。どうすればいいのか。

生活を落としても、どん底に堕ちても、社会がめちゃくちゃになっても、国外の貧困地区に堕ちても、それでもなお生き残る「したたかさ」を身につけるには、そうした世界を最初から知っておけばいい。

どこかで最初から体験しておくのである。若いうちは安い地区の古いアパートから始めるのもいいし、そうでなければ積極的に海外に出てみるのもいい。

知らないのと知っているのとでは、その許容度はまったく違う。貧困から這い上がってきた人が精神的に強いのは、また落ちたとしてもその世界自体を知っているからである。知っていれば恐怖はないし受容も早い。

何らかの不運が重なっていったん落ちても、素早くダウングレードした生活に馴染んで、そこから這い上がる方向に集中することができる。

世の中は危険になりつつある。これから何が起きるのか分からない。今よりも悪いことは必ず起きる。そんな時、いつでもダウングレードできる人間は、できない人間よりも生き残れる強さを持つ。

今の清潔さを失っても問題ないと言って生きていける人は、したたかだ。

野良犬の女たち
『野良犬の女たち ジャパン・ディープナイト(鈴木 傾城)』

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