フェアではないのに競争社会。「夢を持て」は「もっと競争しろ」の裏返しだ

フェアではないのに競争社会。「夢を持て」は「もっと競争しろ」の裏返しだ

「夢は実現する」こういう明るいメッセージは実に口当たりが良くて人々を酔わせて気分を良くさせる効果があるので、社会はメディア等を使って繰り返し繰り返しそのような言葉を美化して人々に送り届ける。その結果、どうなるのか。確かに「一部」は思う通りになった人もごくわずかにいる。しかし、「大半」の人は思い通りにならない。(鈴木傾城)


プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)

作家、アルファブロガー。まぐまぐ大賞2019メディア『マネーボイス賞』1位。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」、投資をテーマにしたブログ「フルインベスト」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。(連絡先:bllackz@gmail.com)

蹴落とされた人の精神を徐々に蝕んでいくもの

現代社会は「競争社会」である。私たちは子供の頃から何かと競争させられる。学業で競争させられ、スポーツで競争させられ、特技で競争させられる。

受験も競争だ。受験というのは、自分の知識や知恵を向上させるためにやるものではない。他人よりも一問よりも多く問題を解いて、「他人を蹴落とすため」にやるものである。

社会人になっても、良い会社、良い給料、良い待遇、良い地位を求めて競争する。残業するのも、資格を取るのも、すべては競争に打ち勝つためである。結果的に見ると、それはすべて他人を引きずり降ろすためにやっているのだ。

ありとあらゆる日常の細部に競争が取り入れられており、人々は「何とか他人より抜きんでなければ」という強迫観念にさらされる。

競争に負けると惨めになる。だから誰も競争に負けたくない。本人は気が付いていないのだが、社会は競争という大きなプレッシャーを人々に与えており、そのプレッシャーが蹴落とされた人の精神を徐々に蝕んでいく。

競争に次ぐ競争で疲れ果てても、競争を止めてしまうと資本主義社会の「おいしいポジション」から脱落してしまうのだから絶対に競争から逃れられない。おいしい思いができないと、競争から降りること自体がストレスになってしまう。

そして、人々は追い立てられていくのである。

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無気力になるというのは、一種の自己防衛である

今や、ありとあらゆる機会で、人々は競争を煽り立てられる洗脳の言葉を聞かされている。それは、「もっと競争しろ」「もっと他人を蹴落とせ」という直接的なメッセージでやって来るのではない。それは、このような口当たりの良いセリフと共にやってくる。

「あなたは、やろうと思えば何でもやれる」
「強い想いがあれば、すべてが可能である」
「夢は実現する」

こういう明るいメッセージは実に口当たりが良くて人々を酔わせて気分を良くさせる効果があるので、社会はメディア等を使って繰り返し繰り返しそのような言葉を美化して人々に送り届ける。

その結果、どうなるのか。確かに「一部」は思う通りになった人もごくわずかにいる。しかし、「大半」の人は思い通りにならない。

そして、できるはずだと思い込んでいたことができなかったり、強い想いがあったのに可能でなかったり、夢が実現できなかった人が、次第に意気消沈し、疲れ果て、精神的に追い込まれてしまうのだ。

無気力になって家に引きこもり、何もしなくなってしまう若者も続出している。無気力になるというのは、一種の自己防衛であることに気付かなければならない。

「自分には才能がある。だから、本気を出せば実現できるが、本気じゃないから実現できない」

才能がないというのを認めてしまうと自己崩壊してしまうので、それは認められない。しかし、今の自分は何も実現できていない。だから、「本気ではない」ということにしなければ自己が保てなくなっている。

1999年のカンボジアの売春地帯では何があったのか。実話を元に組み立てた小説、電子書籍『スワイパー1999』はこちらから

やればできるという聞き心地の良いメッセージ

何でもかんでも「強く願えば夢は実現する」というのは、客観的に考えれば「事実ではない」と誰でも分かることだ。それは、大いなる幻想である。能力の限界、気力、運、環境、運不運によって強く願っても叶わぬ夢はある。

ところが多くの人は、あまりにも強く、長く、執拗に「やればできる」という聞き心地の良いメッセージで無防備に洗脳されてしまっているので、それが現実的ではないことに気付けない。

できなくても、「想いが足りないのだ」「努力が足りないのだ」と自分のせいにして、最初から現実的ではなかったことには目を向けない。

「こうありたい」という想いがあまりにも強くなりすぎて、まわりが見えなくなってしまうのだ。そして挫折を繰り返しているうちに現実を見失い、心のバランスを失ってしまう。

どうすれば良かったのか。

夢を持ち、それを追うのは決して悪いことではない。夢は持ってもいい。夢を持たない人よりも持っている人の方が健全だ。しかし、夢を見る一方で、常に現実の方も見てバランスを取らなければならなかった。

客観的に見ると、子供の頃や学生の頃は大きな夢を持つ年代である。自分の限界が分からない上に、世の中のことも知らないからだ。

しかし、こうした夢は現実を知れば知るほどゆっくりと軌道修正されていくようになる。現実が見えるようになり、自分が見えるようになるからだ。自分が何者かが徐々に分かってくるようになる。

自分の得手不得手も見えるし、自分の関心が持てるものと持てないものも見えるし、自分が社会で置かれている位置さえも見えてくるようになる。

さらに自分の出身、性別、階級、人種という属性から、時代、社会、経済的な位置という自分を取り囲むものもゆっくりと見えてくるようになる。

地獄のようなインド売春地帯を描写した小説『コルカタ売春地帯』はこちらから

「フェアでないのに、競争社会」という残酷さ

現実の社会が見えてくるというのはどういうことなのか。

それは、この世はスポーツのようにスタートラインを同じにして一斉に走り出して勝敗を決めるようにはなっていないということに気付くことだ。

私たちが生きている社会は、スポーツのように階級制もない。競争の条件がフェアにもなっていない。

たとえば、途方もない金持ちと、途方もない貧困層の子供が同時に競争するのがこの世の常である。生きている国や場所が違うと、教育すらも満足に受けることができずに世の中に放り出される。

日本ではどんな子供でも字が書けて当たり前だが、世界はそうではない。子供の頃に教育が受けられず、字も書けず、計算もできない人で溢れている。

たとえば、東ティモール、セネガル、ガンビア、ベナン、シエラレオネ、ギニア、アフガニスタン、ソマリア、チャド、ニジェール、ブルキナファソ、エチオピア、スーダン、マリと言った国は国民の半数以上が「文字が読めない」国である。

高度情報化の中で、文字が読めないということがいかにハンディなのかが分かるはずだ。政府の支援もなく、親の協力もなく、人脈もなく、世間がどうなっているのか知らないまま、ひとりで生きていけと宣告される。

一方で先進国の多くは識字率が高く、基礎教育がしっかりとしており、大学進学率も高い。

グローバル化の時代になると、こうしたまったく環境の違う人間が同時に競争することになる。競争が成り立たないのが分かっていながら、資本主義の世界での競争に追いやられる。

不平等で、不公平で、不備だらけの社会で、底辺の人たちがもがいている残酷な姿は正視できないほど恐ろしい。私たちは資本主義の中で競争しているのではない。競争させられている。

フェアでないのに競争社会……。

この言葉の残酷さが分かるのは、精神的に年を取らなければならないのかもしれない。それは、身の毛がよだつほど恐ろしいことなのだ。

この世は「フェアでないことを知る」というのが、現実的になるということである。フェアではない戦いを仕掛けられて、私たちは戦わなければならない。だから、いかに現実がいびつで残酷なのかを見つめるのは意義がある。

『邪悪な世界の落とし穴: 無防備に生きていると社会が仕掛けたワナに落ちる(鈴木 傾城)』

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