サラリーマンとして生きてきた人はずっとサラリーマンの発想をするし、事業家として生きてきた人はずっと事業家の発想から抜け出せない。すべての人はそうだ。世の中が変わり、その生き方が自分の不利益になると分かっていても、すでに潜在意識の域まで生き方や発想や生活習慣が染みついてしまっているので、いったんゼロに戻してイチから自分を構築するというのがなかなかできないのである。(鈴木傾城)
プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)
作家、アルファブロガー。まぐまぐ大賞2019メディア『マネーボイス賞』1位。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」、投資をテーマにしたブログ「フルインベスト」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。(連絡先:bllackz@gmail.com)
会社ではなく公園に通って、弁当を食べて家に帰る
『習慣という鎖は初めは軽すぎて感じられないが、やがて重くなって壊せなくなる』と言われる。
人はその世界に長く居すぎると、そこに自分の考え方や生活のリズムや習慣が積み重なって、徐々にそれを変えることができなくなる。そして、気が付けばそれが人生を貫く生き方になる。
たとえば、サラリーマンを10年以上も続け、その生き方に最適化した人ほどサラリーマンという仕事を止めることができなくなる。
歳を取って退職したサラリーマンが、どうしても仕事を行かない生活に馴染めなくて、仕方なく同じ時間に起きて背広に着替えて、いつもの電車に乗って、会社ではなく公園に通って、弁当を食べて家に帰るという話も聞く。
真面目に、そして律儀にサラリーマンという生き方に馴染む努力をした人は、そうすることで厳しい世の中で生きていくことができた。そのため、いくら「違う生き方もある」と言われても変えられない。
どこの世界でもルールがある。そのルールが無意識にまで染み込んで自分の習性になり、その習性が自分の行動ばかりか無意識の考え方にまで影響を及ぼすのである。
サラリーマンの世界でも、一日のリズムはどのように作るかとか、上司にはどのように従うのかとか、どのような挨拶をするとか、顧客対応はどのようにするのかとか、服装はどうするとか、言葉遣いはどうするとか、そういった暗黙知に近いルールが存在する。
それに馴染まないとサラリーマンとして生きていけないというルールが夥しくあって、それに自分を最適化すればするほど生き方や考え方が固定化されて変えられなくなる。
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「馴染んだ水からは逃れられない」という意味
「その世界に自分を最適化する」というのは、悪い話ではない。悪いどころか、絶対に必要であり、重要なことでもある。
最適化できないと「まだ未熟だ」と思われる。そしていつまで経ってもその社会のルールに馴染めないと、そこから排除される可能性もある。
たとえば、決められた時間に出勤せず、上司の方針には従わず、挨拶もできないような人がサラリーマンをやっても、評価されることはないし、その世界で生きていくこともできない。いずれ放逐されるからである。
その世界に長くいるためには、できるだけ早くその世界に順応し、その世界のルールを覚え、自分の考え方をその世界に合わせなければならない。自分がその世界でうまく生きていけるように自分自身が自分自身を最適化するのだ。
もちろん、それは簡単な話ではない。しかし、だいたい3年もすればその世界に馴染み、さらに長く続ければやがてそれが自分の生き方になる。
10年もその世界にいれば、もはや他の世界には移れないほど順応することになる。その世界のルールが、自分の絶対的な常識と化す。
常識は疑わない。だから、それが自分の生き方になるのである。自分の決断や考え方は、自分が最適化したルールの中で行われるようになり、それ以外の考え方は馴染めなくなる。
いったん自分の生きている世界に馴染むと、ほとんどの場合はそれが自分の人生を貫いて変えられないことの方が多い。
絶対に変えられないわけではないが、「身に付いた生き方」というのは変えるよりも続ける方が馴染むので、それは延々と続いていく。
だから、サラリーマンの世界で生きていた人は、失職しても次の仕事はサラリーマンを探す。そこに最適化されているので、その世界以外では生きていけないように思うからだ。
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自分がどこの世界に最適化されたのかを把握する
「馴染んだ水からは逃れられない」というのは、このあたりの事情を指している。その世界に自分の人生が最適化されたら、そこにいくら不満や嫌悪があっても抜けられない。
長く水商売や風俗の世界を生きていた女性も、自らをその世界に最適化させている。その世界の独自の考え方、習慣、生活スタイル、ルールを自分の潜在意識にまで到達するほど強く自分に課す。そして、その女性はそこから逃れられなくなる。
話し方、しぐさ、相手の見方、接客、セックスの方法、道徳の概念、金の使い方、金に対する考え方のすべてが自分のいた世界に最適化されていく。
だから、いったんその世界にうまく最適化された女性であればあるほど、その世界から抜け出せない。もはや生き方そのものがそこに馴染みすぎて、他の生き方をする自分を想像することすらもできなくなる。
そう考えると、「自分がどこの世界に最適化されたのか」というのを把握しておくのは、非常に重要なことであるということに気付く。何しろ、あまりにも長くその世界にいて、そこに最適化されてしまっていると、もう「馴染んだ水からは逃れられない」可能性の方が高いからだ。
サラリーマンとして生きてきた人はずっとサラリーマンの発想をするし、事業家として生きてきた人はずっと事業家の発想から抜け出せない。
詐欺師として生きてきた人はずっと「うまくいく詐欺」の発想を考えるし、ギャンブラーとして生きてきた人はずっとギャンブラーの生き方や発想をするし、暴力団として生きた人はずっと暴力団の生き方や発想をする。
たとえ、その生き方が自分の不利益になると分かっていても、すでに潜在意識の域まで生き方や発想や生活習慣が染みついてしまっているので、いったんゼロに戻してイチから自分を構築するというのがなかなかできないのである。
地獄のようなインド売春地帯を描写した小説『コルカタ売春地帯』はこちらから
他人と接触を極限まで避けるあらゆる新ルール
中国発コロナウイルスは社会を破壊し、人々の生活を破壊している。「感染」を避けるために、人々は他人と距離を置くことを推奨されるようになっている。
マスク嫌いのアメリカ人ですらもマスクを求めるようになっており、質の良いマスクが必要になってきているのである。(DHVANI – A Mask for Every American)
これが長引くと、やがて「他人は危険だ、他人は怖い、他人には近寄らない」という考え方が定着することになる。ハグも握手も消え、他人と接触を極限まで避けるあらゆる新ルールも次々とできる。
それが「新しい常態(ニュー・ノーマル)」となる。
この新常態(ニュー・ノーマル)は、コロナ禍が長くなればなるほど強固に定着していく。特効薬や治療薬が開発されないと、私たちは無意識に「他人を避けよう」と思うようになる。
子供たちは自然とそれを学ぶ。他人と不用意に接触したら悪い病気になると「教育」を受けて、それが子供たちの中で強固な常識になっていくと、今後の世界は私たちが生きてきた「今までの常識」とはまったく違う常識が標準になる。
わざわざリアルで他人と会うというのはビジネスでもプライベートでも時代遅れになり、今後はコンピュータのモニターの「ビデオ会議」「ビデオ・ミーティング」「動画チャット」が当たり前になり、真夜中の世界もそれが一般化していく可能性もある。他にもいろんなものが変わるはずだ。
社会の常識は、アフターコロナ(コロナ後)で完全に今までと違っていたとしても不思議ではない。
もちろん、絶対にそうなるとは限らない。奇跡的に特効薬や治療薬が早期に開発されてコロナが社会から完全に一掃されるような事態になったら社会はコロナ以前に戻ることもあり得る。
しかし、そうでなければどうなるのか。今の私たちには馴染めない新常態(ニュー・ノーマル)が今後の社会を作り上げていく。それは今までとはまったく違う常識、まったく違うルールになっていてもおかしくない。
私たちの大半はコロナ以前の「重すぎて壊せない習慣」に馴染んでいるので、数年後は考え方もライフスタイルも時代遅れになって淘汰されてしまうかもしれない。
『歳を取って退職したサラリーマンが、どうしても仕事を行かない生活に馴染めなくて、仕方なく同じ時間に起きて背広に着替えて、いつもの電車に乗って会社ではなく公園に通って弁当を食べて帰る』みたいなことを、私たちは新常態(ニュー・ノーマル)の時代にやってしまうかもしれない。
あらゆるものが変わる。私は今からもう新常態(ニュー・ノーマル)に適応するための覚悟をしている。しかし、私もまた重すぎる習慣でがんじがらめになっているので、新しい時代にはきっと苦労するに違いない。
あなたは、大丈夫だろうか?
こういう時も頭の良い人は切り替えが早いでしょう。
頑固で融通の利かない人は苦労するでしょうね。
それとプライドの高い人も方向変換が難しいでしょうね。
ああだこうだ言っても、人間は地球上の数ある種の一つに過ぎないと
謙虚に認めて、先ずは食べて行けるようにしないとですね。
日本(恐らく都市部)で「知らない人とお話してはいけません」という教育が徹底され始めたのはいつかは分かりませんが、少なくとも80年代には行われていました。
(児童に対する誘拐や性犯罪予防のためだと思いますが)
結果、公共の場所で見知らぬ他人が困っていても、多くの人はどう助ければいいか考えあぐねてしまうか、無視する社会になったと思います。
人と直接のコミュニケーションを取らない、という社会に変化していくとしても、元々日本はすでにそういう変化がすでに起きていたと思いますよ。
(アラフォーの私はむしろ都市部の公共の場で見知らぬ人同士がコミュニケーションを取るような社会が日本に存在していたことがあるか知らないのですが)
長年会社員として働いてきたので、早期退職した時は不安でしたね。
会社に属していれば毎月安定した給料が貰え、大病になっても3年間は会社が面倒見てくれるし、有給休暇もあるし、世間では知られた会社だったので世間体は良いし身分は安定していました。
会社員ではなく個人事業主になると、会社とは雇用関係ではなくなるので収入は減る上不安定になるのは生まれて初めての経験で、この先どうなるのかと思ったものです。鈴木さんが書いているように首までどっぷりと会社員だったし、会社員以外の生活をしてこなかったので様々な不安がこみあげてきたものです。
ところが個人事業主になると会社との雇用関係は無いので、定時に会社に行く必要がなくなりました。これがどんなに楽な事か、午前8時に起きて1時間かけて朝食を取り午前9時になると自宅で始業開始ですから往復の通勤時間のロスがありません。
仕事を前倒しに片づけてバンコクに半月余り年に6回滞在しても、有給休暇の申請も不要です。もっとも年間100日近くバンコクに滞在できる休暇などあるはずもなく、つくづく個人事業主になって良かったと思ったものです(笑)。
うるさい上司からも解放され、月に3回あった無駄な会議からも解放されストレスが無くなりました。収入は半減しましたが、既に子供たちは巣立ち住宅ローンも無いのでバンコクに100日近く滞在しても生活は維持できました。今では個人事業主になって良かったと思っています(笑)。
「馴染んだ水からは逃れられない」
10年以上ベトナムに住んでいますので、もう日本に帰っても適応できないんじゃないかな、と最近思います。
おそらく一度帰ったとしても、また戻ることになりそうな感じがします。
部屋にこもって本と音楽があれば何もいらない、お外でなんか遊びたくない、という幼児でした。ホイクエンとかガッコに行くなんて全く余計なことだけど、この余計なことをこなさないと本とかを取り上げられるだろうということもわかっていたので、できるだけ効率よく片付けてさっさとお家に帰る、世間への対処でなんか時間を奪われたくない、で過ごしてきました。これは爺になった現在に至るまで変わらない基本姿勢です。
現在コロナ禍の影響で社会の運営形態が変化し、来客、面談、電話などの対応件数が激減し誠に快適なのですが、
そもそも従業員が一斉に同時刻に出社する意味などないし、オンライン授業はとっととシステムを構築しておくべきだった。遅きに失したとはいえ早急に取り組むべきですが、コロナ感染が収束した場合「喉元過ぎれば〜」でなし崩し的に元の運営形態に戻る可能性があると思っています。
もしそうであれば、日本の沈没は確実でしょうね。特に悶撫省と狂育委員会の罪は重い。
長年「世間の常識」とかいう、私にはほとんど理解不能の事に対処するストレスで度々心身が故障していましたが、もう我慢は止めることにしました。納得できないことは壊しにかかるし、それでどうにも改善しないなら、すっぱり縁を切ることにします。
もう余命幾ばくもないので、ここらで方針転換して残り時間を無駄にしないようにしよう、と思っています。